栃木市

*参考サイト 日本を歩きつくそう 

大宮城(栃木市大宮町字御城)

 大宮城は、大宮町北部の大宮神社の境内辺りにあった。県道44号線から神社の参道を進んでいくと、右手に写真の土壇が目に入ってくる。周辺は耕地整理されてしまっているようだが、この部分は崩されずに残ったのであろう。高さ2m、方8mほどで、櫓台のような高まりである。この周辺にはもともとは堀があったのではなかろうか。

 参道の左側に水路が延びてきているが、これが堀の名残の可能性もある。

 さらに進んでいくと、東西に走る堀がある。深さ2m、幅4mほどのものである。さほど大きなものではないが、この堀は東と北側の2方向に伸びている。そして、10mほど北側にもう1本堀の痕跡がある。ここから堀はL字型に折れ曲がって東側に延びていっている。この東西の堀に囲まれた辺りは馬出し的な機能があった部分であったと思われる。













 神社の脇から東側に延びる堀。たいして規模は大きくない。それにしてもこの神社の脇の家の犬はうるさい。5,6匹の犬がきゃんきゃんとずーっと吠えている。しかし、神社の西の端を見終わって去ろうとしたら、みんな、ほっとしたかのように静かになった。本当は犬たちもみんな怖かったのね・・・・・。


 大宮城の歴史について詳しいことは分からないが、小山氏が築いたものであると言われている。神社のある辺りを北城、その南側を御城というということからすると、先の土壇の辺りが本丸であったのかもしれない。
 もともとの社殿は南向きであり、調馬路が現在の仲仕上町まで続いていたが、小山氏が南側に城を築いたので、東向きに直されたという。その後、城が廃城となったので、社殿は再び南向きに直された、と現地の案内板に書いてある。

 また1684年に堀田正虎が古河藩からこの地を分与され、大宮陣屋を構えていたともいう。









川連(かわづれ)城(栃木市片柳町) 

 川連城は栃木市の西南端、県道309号線とJR両毛線の線路とが交わっている辺りの東側一帯に広がっていた。永野川に臨む平地上に構築された平城であった。城域はかなり広く、半分は南側の大平町にまたがっている。

 鳥瞰図は南西上空から見たものである。縄張り図を見る限りでは環郭式でかなり複雑、広大な城郭であったようだが、市街地にある平城の宿命というべきか、耕地整理や宅地化によって、その遺構の大部分は失われてしまっている。しかし注意深く見れば、畑地や宅地の間の微妙な高低差がかつての郭の形態を表しているようである。しかし、明確なものは少ない。
 























 図の(あ)の辺りである。畑地の中に段差が認められ、これが堀の名残であるように思われる。この脇のガサ薮の中には、堀も残っている。















 (あ)から(い)に延びる辺りには薮の中に堀と土塁が残っている。土塁は途中、近代的な石垣になってしまっている部分もあるが、100m以上は残っている。現状では高さ1,5mほどである。

 手前の堀も大分浅くなってはいるが、まあ一応堀であると思われる。


















 (い)の脇の土壇。かつては櫓台かなにかであったのであろうか。現在では墓地になってしまっている。しかし、それゆえに崩されずにすんだのであろう。














 川連城は応仁年間に川連仲利によって築かれたのに始まるという。しかし、何重もの堀、馬出しなどといった遺構は、戦国期に入ってから改修・拡張されていったものであろう。戦国期には皆川利宗が修築したといわれているので、南西の富田城と共に、小山氏に対する境目の城として、強化されていったものであると思われる。遺構が完存していればかなり見事なものであったと思われるが、結局ここも富田城と同じ運命をたどってしまっている。まあ平城の多くは同じような目にあってしまっているのだが。






 

栃木城(栃木市城内町)

 栃木城は、その名も城内町にあり、城址公園となっている。しかし、市街地のど真ん中にあるということで、御多分にもれず、遺構の多くは失われてしまっている。それにここに来る道は狭く分かりにくい。「栃木県栃木市にある栃木城」といえばかなりメジャーな感じがしてしまうが、実際は、場末の小さな公園といった趣である。

 かつては本丸、二の丸、三の丸、蔵屋敷を備えた広大な平城であったらしいが、現在では公園となっている方40mほどの部分と北西側の堀、櫓台などが残存している程度である。

 しかし、ここの堀の水はとてもきれいだ。水浴びしたいくらい。堀の中から水道水が噴き出しており、常にクリーンな水を保っているようだ。中には鯉や金魚がたくさん泳いでいる。城塁は石垣になっているが、これはもちろん後世のものである。堀の水をこのようにきれいに保つためには土塁のままではいけないのであろう。ここも古図を手に入れられたら、鳥瞰図を描こうと思っていたのだが、残念ながら古図がなく、いい加減なラフしか描けない。










 北西の櫓台。高さは郭内からでも5mほどはある。上は方5mほどで、実際に櫓を立てるのには厳しそうだが、何か物見のための施設が置かれていたかもしれない。

 しかし、この櫓台上には穴がいくつか開いている。ぼんやりしていると、足をとられ、中にたまった水で靴を濡らしてしまうことになるので気をつけよう。



 栃木城はもともと、永享年間(あるいは応永年間)に長沼(皆川)秀光が築いたものであると言われているが、それについて確かなことは分からない。

 天正19年、小田原の役で北条方に加担した皆川広照の居城皆川城は、豊臣方の大軍に攻められ、開城、降伏した。その後どういうわけか、皆川氏は取り潰しとはならず、栃木に所領を維持することができた。そこで新たに平城として築いたのが、この栃木城であったという。

 しかし、慶長14年には、皆川氏は結局取り潰されることとなるので、城も廃城となった。一時期、戸田氏の陣屋として用いられたこともあったようだが、戸田氏が栃木陣屋に移ってからは使われることはなかったようだ。











栃木陣屋(栃木市)

 栃木陣屋の場所ははっきりしない。現在、裁判所がある所がそうだと言われているが、市街地化のため遺構らしきものは特に見られない。
 栃木陣屋は足利・河内・都賀の3郡で1万1千石を領した戸田市の陣屋であった。初め陣屋は栃木城内に置かれたというが、どういうわけか別地に移されたものらしい。
 幕末、天狗党の乱で、天狗党の一味に金を要求されて、400両を渡してしまった。それが関八州取締役の知る所となり、反乱軍に加担したとみなされた栃木陣屋は攻め込まれ、悲惨な目に遭うこととなる。






平川城(栃木市大宮町)

 平川城は東武宇都宮線の「野州平川駅」の北側にあった。平川という地名はよくあるので「野州平川駅」と名づけたのであろうが、この「野州」というのがついている響きがとても中世的でいい感じがすると感じるのだが、これも中世城郭シンドロームの一種? 
 しかし、城の遺構は湮滅状態である。駅の北側一帯は「富士産業」という実に大きな工場の敷地内となってしまっているのである。これでは遺構の残りようもない。昭和15年頃までは幅6mほどの土塁が残っていたというが・・・・。
 平川城は永享7年頃、皆川氏秀が築いたという。氏秀の次には次男の成明が城主となったが、大永3年(1523)、宇都宮忠綱に攻め込まれて討死、城もそのまま廃城となったという。






箱森城(栃木市箱森町)

 箱森城は、箱森町の鷲宮神社の辺りにあったという。長沼氏(皆川氏の先祖)の支族の居館があったところであるというが、市街地化のためか、遺構はすっかり失われてしまったようだ。神社の脇に墓地になっている高台があるが、これはひょっとすると土塁なのかもしれない。(わざわざ2mほど高く土を盛り上げて墓地を造成するとは思えないので) しかし、これが土塁としても、このような残存状況ではほぼ湮滅と言われても仕方のないところであろう。

















畠山陣屋(栃木市嘉右衛門町)

 嘉右衛門町の南に岡田記念館があるが、ここが畠山陣屋の跡である。岡田家は、江戸時代に未開地を開墾し村民に生活の基盤に貢献したことから名主となり、現在地に住居を構えることになったという。現在の嘉右衛門町という町名も彼にちなんだものである。

 江戸時代にはここに日光例幣使の本陣と努めるようになった。また、畠山氏の領地時代には、邸内に陣屋が置かれ、代官職も兼任したという。

 写真は陣屋門であったものか? その脇に「畠山陣屋跡」の立派な碑が建っている。


















吹上城(栃木市吹上町)

 吹上町にある吹上中学校が城址である。学校の敷地内となってしまったために、遺構の多くは失われてしまったようである。中学校は比高12、3mほどの台地上にある。また、この台地を上った所にも、高さ3mほどの段差があり、虎口的な部分も見られる。しかし、これが遺構であるのか、中学校の建設に伴って生じたものなのかは不明である。

 吹上城は皆川氏の支族膝附宗長によって築かれた。皆川城の防御網の一環としての機能を持っていたのであろう。

 その後近世も後期に入って、天保12年(1841)、上総五井から有馬氏恕が来て、城址に陣屋を置いた。この陣屋も吹上城と呼ばれたという。ということなので、中学校内に見える土手の段差などは陣屋遺構である可能性もある。

 日本を歩きつくそうを見ると、「中学校背後の土塁・堀切」という写真が載っているが、これって中学校に入って撮ったのかなあ。

 その後、中学校背後の裏山に登ってみたが、遺構を見つけることができなかった。先の写真はどこのことだったのであろうか・・・・。


































大竹屋旅館

Ads by TOK2