高田城(新潟県上越市本城町)と福島城(上越市港町)

 高田城を東方上空から見てみた。郭と建物の配置については、高田市立図書館所蔵の古図に基づいた。これは寛保元年(1741)、姫路から高田に15万石で転封された榊原政永が描かせたものであり、その当時の状態を映したものであると思われる。


 そもそも高田城が築かれたのは慶長15年(1610)、越後福島75万石に封ぜられた徳川家康の6男、松平忠輝による。忠輝は移封先の福島城が手狭だったために、幕府に築城許可を願い出る。幕府はこれを天下普請とすることを決め、加賀藩の前田氏など13の諸侯に命じて工事を行わせた。工事は慶長19年の正月から行われ、7月にはほぼ完成したというから、そうとうの突貫工事であったのであろう。

 忠輝は大阪の陣などで不遜な行動が多くあり、やがて改易となる。その後、酒井氏、松平氏が入城するが、寛文5年(1665)、折からの地震で城内の櫓や門の多くが倒壊、さらに延宝4年(1676)、大火が起こり、城内の建物も多くが焼失してしまった。その後お家騒動が起こったこともあり、城内は次第に荒れてきた。寛保元年に榊原氏が転封してきた時には城はかなり損傷していたはずである。とはいえ、榊原氏は15万石にすぎない。75万石の居城として築かれたこの城を完全に維持していくだけの財力はなかったであろう。榊原家の絵図を見ると、城内に建物は少なく、御三階櫓こそあれ、それ以外の櫓は1つもない。この城の規模からすると、もっと櫓などが塁上に立ち並んでいてよさそうであるが、これらは地震や家事で破損し、以後再建されなかったものであろう。というわけで、この鳥瞰図は、城が大分荒れた時期の図を基にしたものなので、忠輝によって築かれた当初のものとは大分違うかも知れない。
















  

 高田城は長らく土塁と堀しか残っていない城だったのだが、平成5年に7億5千万円という巨費を投じて天守(御3階櫓)が復興された。それにしてもこのところ天守の復原にかかった費用をみるとやたらと高い。白石城は12億円、掛川城に至ってはなんと22億円もかかっている。綾城の模擬天守は似たような規模だが、1億円ジャストでできたというから、本当はもっと安くできるのに、公共事業と言うことで、業者の談合が行われ、結果として高くなってしまうということがあるのではないか・・・と思ってしまう。

 古絵図等を参考に、内藤昌氏の考証によって建てられたものだそうだが、なかなか味のある建物である。今後は、門、塀、橋等順次復原してゆくというので楽しみだが、バブルのはじけてしまった今、どうなっていくのか、ちょっと気がかりなところだ。








 
 高田城の堀。広い所では幅が100mほどもあり、一面の蓮池となっている。夏の頃には白や桃色の蓮の花が咲き乱れていてとてもきれいなのであった。これは大手橋の辺りだったと思う。


















福島城(上越市港町)

 福島城はほとんど隠滅してしまっているので、かつての城の構造を知ることは現在では不可能である。
 そこで、現地案内板の図を元にして復元想像図を描いてみたが、どこまで合っているのかは不明である。

 日本海に近く、関川や保倉川の水を堀に引き込み、海運をも意識した海城といっていいような構造の城であったようである。
 
 しかし、海に近い上に数本の川に囲まれるといった構造のために、たびたび洪水によって城のあちこちを破壊されてしまったらしい。結局、この城は放棄され、内陸部に新たに高田城が築かれることになる。

 現在の古城小学校の辺りが城址であったようであるが、どこが城の中心であったのかも不明である。
















 上杉景勝が会津に転封になった後、この上越の地に移封されてきたのは堀秀治であった。秀治は、山城であった春日山城はもはや時代に合わないと考え、直江津の港付近の海岸地帯福島の地に新たに平城を築いた。これが福島城である。

 しかし、その後に来た松平忠輝は高田城を築いて移って行ったので、福島城は廃城となってしまった。その後、近代になり工場、学校、宅地などが建てられたために、城の痕跡はほとんどなくなった。古城公園、「古城公園」というバス停、古城小学校といった名称にのみ名残を留めている。

 写真はその古城公園であるが、城の痕跡すらもない。本丸はどうも古城小学校の辺りだったらしい。今回、うっかりそちらのほうは行かなかったのであるが、埋もれた古城を見ると、石垣跡や碑、案内板などがあるようである。

 昭和42年から3年にわたって発掘調査が行われたが、城全体の構造を明らかにするまでには至らなかった。しかし、この時、本丸の大手枡形の石垣などが発見されている。城の縄張りもよく分からないが、高田城とよく似た環郭式の平城ではなかったかと思われる。








御館(上越市五智)

 現地案内図を基にして作成した、御館の想像復元図。現在は遺構が完全消滅しているので、本当にこの通りであったかどうかは分からない。しかし、平城ではあるが、5つの郭を持ち、そこそこ広大な館であったというから、おおよそこんな感じであったのだろう。

 御館の跡は、信越本線直江津駅の南西500mほどのところである。周辺は宅地化が進んでおり、城の遺構はすっかり破壊されてしまったようである。また、一部は線路によって分断されてしまっている。

 城址は「御館公園」となっているが、これがまた、さっぱり城址公園といったイメージを感じさせる公園ではなく、ごく普通の住宅地の中の児童公園といったレベルのものであるに過ぎない。したがって、住宅地の中でこの公園をさがすのも大変であった。しかし、公園には「御館跡」を示す立派な石碑が建てられているので、そこがただの公園でないことはすぐに分かる。


 天文20年(1551)2月、北条氏の攻撃に耐え切れなくなった、関東管領上杉憲政は、上州平井城を捨て、長尾景虎を頼って越後にやってきた。景虎は彼を受け入れて、彼のために居館を建造してやった。それがこの御館である。上杉憲政はここで長い年月を過ごすことになる。そしてその最期も、この館の落城に伴うものであった。

 天正6年(1578)3月、上杉謙信は、急病により逝去してしまった。謙信には実子がおらず、長尾政景の次男景勝と、北条氏康の7男景虎の二人を養子として迎え入れていた。ところが、このうちのどちらを後継者にするのか、謙信は明確な意図を明らかにしていなかった。そのために、後継の座を巡って両者の争いが繰り広げられることとなる。これがいわゆる「御館(おたて)の乱」である。

 景勝はいち早く春日山城を奪取し、それに対抗して景虎は、御館を拠点として立て籠もり、わずかな距離を挟んで両者は対立した。当初有利であったのは、巨大な北条氏をバックに控えた景虎の方であった。しかし、景勝は上杉家臣団に対する工作を行い、地道に自分の支持者を拡大していった。さらに武田勝頼に大幅な領土分割を提案することにより武田家を見方にすることに成功した。このことによって、両者の勢力は逆転する。十分な軍事力を得ることに成功した景勝は、御館を攻撃して落城させた。この時、上杉憲政は、長男の道満丸を連れて、景勝の所に身を寄せようとしたが、景勝側の兵士に殺害されてしまった。

 一方、景虎は御館を脱出、鮫ヶ尾城に籠って抵抗したが、すでに彼我の勢力差は決定的なものとなっており、鮫ヶ尾城で自害するしかなかった。

 この乱の後、御館は廃城となったと思われる。それにしても、この乱を「御館の乱」と呼ぶのはちょっとおかしい。両者は後継の座を巡って対等に争っていたのだから、「越後の乱」といった名称でよさそうなものである。それを「御館の乱」と呼ぶのは、勝者となった景勝側が、景虎を反逆者と見なしてのことであろう。勝てば官軍ということわざがあるが、敗者となった景虎は、ただの反逆者として扱われてしまっているのである。

 住宅地の中にある御館公園。普通の街中の公園であり、特に遺構は見られない。
ただし、立派な石碑が建てられている。






































大竹屋旅館

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