菅谷城(埼玉県嵐山町菅谷字城)

 この城についてはどの本にも、あるいは地図などにも「菅谷館」としてある。菅谷館は「吾妻鑑」にも記述が見られる、畠山重忠の居館として有名である。実際、(あ)の土壇の上には畠山重忠の銅像が建っていて、源平の歴史よく知られているこの人物は、地元でもやはり人気者のようだ。

 しかし、私はこの城をあくまでも「菅谷城」としておく。確かにこの城の出発点は畠山重忠の居館であったのかもしれないが、現在見られる遺構は、戦国期の「城」である。重忠の居館はもっと簡素なものであったであろう。しかし一般の人は、この城を見て「なるほど、さすがに畠山重忠、立派な館に住んでいたものだ」と思い込んでしまいそうだ。ということもあって、ここはあくまでも「菅谷城」と呼ぶべきである、と思うのである。

 菅谷城は、戦国期、北条松山衆に属した城の1つであったろうと思われる。埋もれた古城では「蔵比企郡での軍事拠点、「繋ぎの城」の一つとして、北条氏の手によって改修されたもの」と推測している。城内の郭はかなり広く、兵站地点として意識された城郭であったことは間違いないだろうと思う。
 上杉や武田によって松山城の攻撃が行われていた時、この城はどのような役割を担って、どのような攻防戦を展開したものであろうか。「軍記物」等にも松山城以外のことはあまり描かれていない。しかし、ここにもドラマはあったはずである。

















 (い)の部分の堀。というか、もともと川だったのかもしれない。左端の方には、現在も小川が流れる。この堀はしだいに深くなって、下の沢に続き、やがて都幾川と合流する。

















 (う)の部分の堀。現在も水が溜まっていて、もともと水堀であったことが分かる。向こうに少し高くなっているところが「畠山重忠像」のある土壇である。

 この脇には「毒ヘビ(マムシ)に注意!」という看板が出ていた。こんな整備された所でもマムシに注意しなければならないのであろうか。では私が普段歩いている所といったら・・・・・・。まったく恐いなあ・・・。
















 2郭外側の堀。散策路が造られている関係か、堀が一部埋められてしまっているようである。堀幅はもともとは10m近くはあったであろう。


















 1郭の虎口を2郭側から見た所である。草が茂りすぎていて、いまいち形態が分かりにくい。

















 1郭虎口の土橋のところから、(え)の城塁を見た所である。堀の深さは6,7m幅は8,9mほどある。

















 同じく1郭土橋から反対側の横矢の折れを見た所である。1郭のほうが3,4mほど高いが、これは地形的なものではなく、郭内側の土塁の高さによるものである。この城の土塁は高くきちんとした形で形成されている。
















 1郭南側の(お)の辺りを見た所。小規模な空堀構造となり、この下側が南郭ということになる。

 この部分を先に進むと、その先は深さ20m近くはあろうかという、深い沢になっている。天然の堀であるが、地形的にもかなり要害の地であったことが改めて分かる。
















 (え)の土塁を東側から見た所である。1郭の東端で土塁には切れがあるが、ここに虎口があったものかどうか・・・・。この先は断崖になっているのである。
















 私が回っている城の中では珍しく、菅谷城は公園としてよく整備されており、雨上がりの中でもけっこうたくさんの訪問者がいた。この日回った北埼玉の城の中で、人に出会ったのはここだけであった・・・・・・。























大竹屋旅館

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