塩原町

宇都野城(鳩ヶ森城・塩原町宇都野字根古屋) 

 宇都野城は、県道30号線沿いにある。箒川にかかる宇都宮橋の西側一帯の比高10m余りの台地全体が城址となる。この広大な台地を大規模な堀で何重にも固めた見事な城であるのに、城址入口を示すような案内板も何も建っていない。しかも城内には神社もあるのに、城域のほぼすべてが薮の中である。ここではちょっと城を見るだけでも「やぶれんじゃあ」しなければならない。

 県道30号線は交通量が激しいので、西側の通に入ったところに車を止め、そしてレンジャー部隊は城内突入。それがまた、なんというか、西側の川を渡って攻め込んだのである・・・・・。鞭声粛々と、である・・・・。でも、川を越えて薮に入ろうとする行動に対して、誰も異論を唱えないなんて絶対におかしいと思うぞ・・・・。

 鳥瞰図は東南上空から見たものである。ここも薮がひどくて郭の形状が大分違っているかもしれないが、実質30分で書いた図なので(しかも途中雨が降ってきてスケッチブックを開いていられなかった)、まあこんなものだろう。

 東の箒川と西の小川に挟まれた比高10mほどの台地を連郭式に区画した城であるが、台地の基部に近づくにつれて、堀の規模が大きくなってくる。台地基部に向かって進むにつれて、深さ10m、幅16,7mほどの堀が何本も目の前に現れてくる光景はまさに「めくるめく」思いである。

 台地基部の方は遺構の規模は大きいが、形態的には大雑把な印象である。それに対して、先端の2つの郭は、非常に緻密に造られている。特に、2郭北側の方8mほどの土塁に囲まれた1角はいったい何を意味するのであろうか。図面によっては「武器庫」などと書かれているが・・・・・。

 先端の2郭は20m×80mと南北に細長い郭である。西側には土塁が巡らされ、南の先端部分が櫓台のようになっている。東側には土塁はないが、1ヶ所、塚のように盛り上がっているところがある。その下には腰曲輪より1mほど高く小さなスペース(い)があり、(あ)の虎口に接している。この辺りにのパーツは虎口に関する仕掛けを構成していたのではなかろうか。

 上記の通り、2郭の北側には土塁で囲まれた空間(う)がある。この部分、北側だけ土塁がなく、向かい合う1郭には土塁の切れがあるので、ここに木橋を架け、(う)は枡形になっていたのではないか、したがって真の1郭はこの「2郭」ではないか、とも一瞬思ったのであるが、その後1郭に行ってみて、1郭の方がやや比高が高く、土塁の造りもしっかりとしていることから、やはりこちらが1郭であろうと考えた。すると、この(う)はいったい何なのか、結局よく分からないのであった。

 1郭は方50mほどの多角雑形の郭である。図では台形に見えるが、東西の土塁には緩やかな折れがあるので、実際には6角形に近いといってもいいのかもしれない。この郭の東北端に土壇があり、ここに神社が祭られている。なお、「栃木県の中世城館跡」では、この1郭北側の土塁に「石垣」と記しているが、これは土塁の内側に崩落防止に積んだもののようで、城郭遺構かどうかは疑問である。

 1郭の北側には3郭がある。3郭北側の(お)の辺りが少し高くなっている。また東の下側には腰曲輪がある。

 3郭の北側には4郭がある。この郭は2段構成になっており、東の腰曲輪のところに祠がある。(か)の部分は石垣であるが、これは後世、祠の設置に伴って築かれた新しいものであると思う。また祠の北側には斜めに長く延びた土塁がある。

 4郭と5郭の北側の堀は、いずれも途中で途切れてしまっている。これは耕地整理で失われたものであろう。それを示すかのように、西側奥の畑地の中にはところどころに土塁の痕跡やあやしい段差がある。しかし、旧状を復元するのは難しい。5郭北側の堀には(く)の切れ込みが2ヶ所あるが、これは何を意味しているのであろうか。

 外郭部の北150m程の所に土塁が台地縁に沿って残っている部分がある。これが最外郭の遺構なのかもしれないが、もしそうだとすると宇都野城はそうとうの規模の城郭であったということになろう。


 宇都野城を東側の中川方面から遠望。霧にかすんで見える。




















 2郭下の虎口(あ)。
 石がごろごろしているが、もしかすると石積みがあったのかもしれない。東下から切通し道を上がってくると、この虎口状の部分に出る。(あ)の南側に2郭に登る坂道があるのだが、これよりもむしろ、(あ)の北側の(い)の部分辺りが虎口に関係しているのかもしれない。















 薮だらけで、まったくまともな写真が撮れん。これは周囲を土塁で囲まれた(う)の部分。方8mほどある。ここは1郭と接続する部分なのであるが、枡形じゃあないのかなあ・・・・。



















 1郭と2郭との間の堀。右側が1郭城塁。深さ6m、幅12mほど。1郭の南側には虎口が開いているので、こちら側に通路があったことは間違いないだろう。

















 1郭にある神社。「本丸」と書かれた標柱がやる気なさそうに木に寄りかかっている。この神社のある土壇は天守台か!(んなわけない) 旧状でもこの土壇があったとしたら、やはり城主の氏神かなんかを祭っていたのであろう、東北の角だし。



















 1郭と3郭との間の堀。深さ5m、幅10mほど。まあまあの規模の堀である。しかし薮が・・・・・。どんなにがんばってもこんな写真にしかならない。「一の堀」の標柱がむなしく埋もれている。しかし、この堀は南側からは2番目、北側からは4本目に当たる。それなのになぜ「一の堀」?
















 3郭の薮を突っ切っていくと、3郭と4郭との間の堀が見えてきた。おお! これはすごいぞ。深さ10m、幅16mほどはある。横矢を意識しているのか緩やかにカーブしている。しかも堀の中に湧水点があるのか、底に水が流れている。4郭に行くためにはこれを降りて、また上るしかない。















4郭に上って再び薮を突っ切っていくと、今度は4郭と5郭との間の堀に出た。おお、これもすごい! やはり深さ10m、幅は15mほどだ。やはり横矢を意識したようなカーブがある。特に(き)の辺りの土塁は、横矢を掛けるために意識的に積んだものかもしれない。この堀にも底に水が溜まっている。先に進むには、ここをまた降って登るしかない。ここも下に水が流れている。
















 4郭の東側に出っ張った(き)の土塁。横矢を掛けるための仕掛けか。それとも、この部分の地勢が低くなっていたので、5郭の高さに合わせるために土盛りしたのかもしれない。



















 5郭の薮をさらに突っ切っていくと、5郭と外郭との間の堀が現れた。これはなんと! この城の堀の中でも最大のものではないか。深さ12m、幅20m近くある。ここにも水が少し溜まっており、底に下りることはさすがにできず、下からの写真が撮れなかったので、まったくなんだか分からない写真だ。しかし、堀の向こうに畑がのぞいているのが分かるであろうか。この先は耕作地となって薮は終わるのである。

 この堀も屈曲している。それに外郭側には(く)の両脇の切れ目がある。これは何のためのものだろう。馬出し的な機能があったのであろうか。その辺りは今後また考えてみよう。















 宇都野城を最初に築いたのは山本上総介家隆で、彼は後三年の役で源義家に従って功を立て、塩谷・矢板で15ケ村を領して寛治3年(1089)字「古城」の地に居館を営んだという。「城郭体系」によると以後、山本氏が代々の居城としていたが、天文2年(1533)、那須勢の太田備前守資宗によって攻められ落城し、以後廃城となったという。しかし、現在見る遺構は、規模雄大で戦国も末期のものではないかと思われる。那須氏によって落城した後、宇都宮氏に対しての前線基地として順次、拡張されていったのものではないだろうか。

























大竹屋旅館

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