新発田城(新潟県新発田市大手町)

 新発田城を南西上空から見てみた。例によって正保城絵図によるものであるが、この絵図には「溝口出雲守」という書き込みがあり、溝口出雲守宣直が在城した44年間のうち、正保年間に幕府に提出されたものであろうと思われる。

 城の構造としては、五角形の本丸(100m×150mほど)を中心に、それを囲むように二の丸があり、新発田川の水を取り入れた二重の堀で囲まれている。さらにその外側に水路を入れていた。本丸表門と二の丸との間は帯曲輪状になり、これが馬出し的な役割を果たしていたと思われる。この馬出し部分の土塁は現在でも一部残存しており、数少ない遺構の1つである。

 搦め手門の方から城内に入ると、本丸城塁がすぐ目の前に見えるが、本丸の虎口に達するためには枡形などいくつかの関門を通らねばならないようになっている。

 さらに二の丸の東南側に三の丸がある。この方面の守りが厚く、大手もこちら側となる。

 城内にはわりあい櫓の数が多く、本丸に5基、二の丸に5基、三の丸に1基が、城塁上にそびえていた。

 新発田城には石垣と隅櫓の写真がよく紹介されているので、総石垣造りの城であると思う人が多いようだが、実際に石垣が用いられているのは本丸だけで(それも全部ではない。この絵図では一部土塁のように描かれている)、全体的には掻き揚げといってもよさそうな平城であった。溝口氏が入る前の新発田城は、まさにそういった平城であったのであろう。

 さた、新発田城の天守(御三階)には古写真が残っている。最上層の屋根の破風を3つ持った非常に珍しい天守で、この天守を復元してくれたら面白いのになあと、ずっと思っていた。それが今実際に復元されつつあるのがうれしい。城内は陸上自衛隊の基地になっていたため、内部に入ることもできなかったが、現在では、この基地も移転しているようだ。

 04年度に御三階櫓が完成したので早速見に行ってきた。



新発田城の二層櫓。現存である。雪国の城らしく海鼠塀が塗られている。 かつての天守台。御三階櫓(天守)が復元される以前の状態である。
完成した御三階櫓。最上層の破風が三方向にある珍しい形状である。 復元された櫓。


 新発田城は、在地の豪族であった新発田氏によって築かれたと思われる。戦国期の新発田重家は、上杉謙信に属し、さまざまな合戦で武功を立てた。謙信の死後、その跡目争い(御館の乱)で重家は景勝側についたにもかかわらず、戦後たいして恩賞を得られなかったため、不満が爆発。景勝に対して反乱を起こし、天正9年(1581)より7年間にもわたって、景勝と血みどろの戦いを続けることになる。この頃、新発田城は二重の堀を持ったかなり大規模な城に成長していたらしい。しかし衆寡敵せず、柴田氏は滅亡の道をたどっていくことになる。この間のいきさつについては埋もれた古城新発田重家の乱が詳しい。

 慶長3年(1598)、上杉氏が会津に転封になると、代って入城してきたのは、尾張出身の溝口秀勝であった。6万石である。現在の新発田城はこの溝口氏によって改築されたものである。切り込みハギできれいに布積みされた石垣は、平和な江戸時代になってから積まれたもので、この辺りの城では珍しい。



*関連サイト 新発田城復元の会





















大竹屋旅館

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