栃木県佐野市

*参考サイト 日本を歩きつくそう  埋もれた古城  

赤見城(佐野市赤見字町屋)

 赤見城は方形の本丸とを中心とした平城で、現在は赤見城保育園の敷地となっている。鳥瞰図は西側から見たものである。城塁は東南の角の部分が保育園の園舎を建築した関係で破壊されてしまっているが、それ以外の部分は良好に残されている。下野地域にはこのような方形館から発達した平城がたくさん残っている。赤見城もその1つで、本丸の形状は児山城、上三川城などとよく似ている。

 この本丸を中心として、周囲には二の丸や外郭部があったらしい。本丸の西側にやはり堅固な土塁があり、この二重堀になっている部分が現在も残されている。しかし、それ以外の外郭部は現在では市街地化に伴ってすっかり失われてしまったようである。城址碑のそばにあった図をもとにして堀を描いてみたが、本当にこのとおりであったかどうかは確認できない。また、この部分の200m西側の町外れにも城塁があり、ここまでが城域で、町屋を取り込んでいた構造であったらしい。













 本丸内部の様子。保育園のグランドとなっている。郭内は50m×60mほどである。この日は土曜日で保育園は休みのようであったが、平日にカメラをもってうろついていたら、不審者扱いされてしまうかもしれない。
















 本丸東側の土塁。堀は埋められてしまったようだが、土塁はしっかり残っている。版築されたものでしっかりと盛られている。高さ5mほどである。
 この土塁の北西の角には、櫓台というほどのスペースでもないが、祠が祭られている。















 本丸西側の堀と城塁。現在も水が湛えられている。深さ6m、幅8mほどで、ほぼ往時のままの形態を偲ぶことができる。写真の左側が本丸城塁。右側が外側の土塁で、この先にも同様の堀があり、この部分は二重堀構造となっていた。















 本丸土塁と堀の南西部分。この辺りはとても城らしい、いい雰囲気を残している。この南側の部分の土塁が最も高くなっているが、この方向に正面虎口が設けられていたのであろう。

















 本丸西側の二重堀の間の土塁。この土塁の中央に立って、二重堀を写してみた。右側下が本丸堀。左側下が外堀である。
















 赤見城は治承2年(1178)、足利俊綱によって築かれたのに始まるという。治承5年、志田義広の乱に際して、俊綱も呼応したが敗れて殺害された。その後建久元年(1190)、戸賀崎義宗が城主として入ってきた。
 戸賀崎氏は戦国期には赤見氏を名乗るようになり、赤見城はこの赤見氏の居城として改修されたようである。永禄2年(1559)、赤見氏は佐野氏と戦って破れ、佐竹氏を頼って常陸に逃亡した。その後、赤見城は、佐野氏の支城として維持され、佐野城が廃城となると、同時に廃された。



阿曽沼城(佐野市浅沼町)

 阿曽沼城は、浅沼町の浅沼八幡宮の境内にある。単郭方形の平城であった。しかし宅地化のために遺構のほとんどは失われ、神社の東側の奥に写真の堀と土塁がかろうじて残っているにすぎない。深さ2m、幅5mほどで、60mぶんくらいだけが残存部分である。

 阿曽沼城は、佐野氏の一族であった阿曽沼氏の居館であったといわれる。寿永年間頃にはすでにこの地に館が営まれていたというが、南北朝期には阿曽沼氏は没落してしまったという。
















唐沢山城(佐野市富士町唐沢山)




佐野城(春日岡城・佐野市若松町城山公園)

 佐野城は、JR両毛線・東武佐野線の「佐野駅」のすぐ北側にあり、城山公園として整備されて市民の憩いの場となっている。しかし、公園化されすぎているために、かえって城の構造が分かりにくくなっている面もある。

 この丘は比高15mほどで、春日岡と呼ばれていたので、佐野城も春日岡城とも呼ばれている。慶長7年(1602)、唐沢山廃城を命ぜられた佐野信吉が、その代わりに居城として築いたものである。

 総堀を巡らせてはいるものの、近世大名の城としては小さく、構造も堀切を3本入れただけの極めて単純なものである。おそらく佐野氏は、居城をこちらに移していながらも、いざという時には唐沢山城を使用するつもりだったのであろう。

 唐沢山城の堅固な石垣などに破城の跡が見られないことから、唐沢山城を完全に放棄したわけではないことが想像できるのである。したがって、代わりに居城とした佐野城は、とりあえずの適当なものでよい、そう信吉は考えたのではないだろうか。

 慶長19年((1615)、大久保忠隣の改易に連座して、佐野氏も佐野3万5千石を没収されてしまい、佐野城は廃城となった。わずか12年間しか城として用いられなかったのである。 

 周辺を取り巻いていたという総堀は市街地化に伴って大方埋められてしまっているが、地形的に段差が所々に残っており、ある程度の形状を把握することはできる。


 駐車場となっている三の丸から記念館のある二の丸に上る坂道(あ)。車道を通すために地形が大分改変されてしまっているが、上った所に段差が見られるので、もともとは内枡形が存在していたのではないかと思われる。
 三の丸は50m×80mほどで長方形。二の丸は70m×110mほどでやはり長方形の郭である。
















 二の丸と本丸との間の間の堀切(い)。間にかかる橋の上から西側を見た所である。深さ8m、幅12mほどである。この堀に接続する二の丸方面には土が少し盛られた跡があり、本丸方向では地勢がやや削られ、ここにも内枡形が存在していたかのような痕跡が見られる。かつて行われた発掘ではここで石垣が見つかり、石垣を用いた枡形であったことが分かっている。唐沢山城の石垣枡形のようなものが、ここにもあったのであろう。

 この堀切の法面からも石垣が発見されていると思うが、どこにあるのかよく分からなかった。

 本丸は台形状で、北に行くにしたがって狭くなっており、南北100m、東西70m〜50mほどである。










 本丸からは石畳と石垣とが発見されている。本丸東側の(う)の辺りで、現在埋め戻されて知るが、石垣列に沿って写真のように石が並べられている。この下に石垣があるらしい。高さ1mほどの小規模なものであった。

















 本丸と北出丸との間の堀切(え)。出丸北側から本丸東側の城塁を撮ったものである。深さ6m、幅10mほど。
 北出丸は20m罰50mほどで西側に虎口が見られる。
















 総堀はすべて埋められているが、地形的に確認できる場所もある。写真は城東中学校の東側の((お)の辺りである。比高5mほどの土手が今もはっきりと残っている。この土手に沿って水路が走り、これが堀の名残であったと思われる。


















椿田城(佐野市船津川町)

*『栃木県の中世城館跡』(東洋書林)を基にしてラフを描いてみた。

 椿田城は、国道50号線と県道7号線とが合流するジャンクションの南西600mほどの所にある。現地近くには案内板が出ているので場所はすぐに分かるであろう。

 西の才川に臨む微高地上である。60m×100mほどの単郭方形の居館であったと思われる。

 写真は南側にあった水堀の跡である。奥に見えるのは椿田城主福地氏の守護神である十一面観音堂。福地氏はたびたびの軍で矢や弾丸を兜に受けたが、偶然にも負傷せずにすんだ。福地氏はこれをこの観音の加護によるものだと感じて、篤く信仰したという。

 椿田城の城主福地氏はもとは丹波国出身であったというが、当地に来て佐野盛綱に仕えたという。永禄3年(1560)、唐沢山城の支城として、この城は築かれたものであるといわれている。











 西の才川との間にある堤防。高さ6mもある大きなもので、近代のものかと思ったのであるが、現地の方に伺った所、江戸初期にはこの堤防は存在していたという。家康が没したときにも、この堤防を通って遺体を日光に運ぶという計画が立てられたことがあるという。

 堤防の上はかつて道路として用いられ、戦前はバスも通っていたものであるということであった。















 堤防と城との間の水堀。往時もこんな感じであったのであろう。この堀の水は北方の湧水点から引いてきているもので、この地域一帯の水田を潤しているのであるという。椿田城主はこの水路を押さえることで、水利権をも掌握していたのであろう。
















 城の北側の外れに、堤防が盛り上がって巨大な土塁のようになっている部分がある。近代の工事で生じたものでないかと思うのであるが、この高い堤防そのものが江戸時代には存在していたということであるから、もしかすると城と何らかの関係があるものなのかもしれない。















堀田佐野城(植野城・佐野市植下町)

*現地案内板を参考にして、堀田佐野城の復元鳥瞰図を描いてみた。

 堀田佐野城は植野城ともいい、国道50号線の北側の堀田稲荷神社周辺にあった。城址には写真のような立派な碑や標柱が建っている。この標柱では「佐野城」としているが、この名称では春日岡城と混乱してしまいそうだ。

 堀田佐野城は文政11年(1828)に堀田氏の城として築城された。しかし、城というよりも実態は陣屋に近かったかもしれない。

 周囲には堀が巡らされ、単郭ではあるが、複雑に城塁が入り組んでいる。幕末近くという時代背景もあってか、稜堡式城郭を意識した構造であったように思われる。














 上の周辺には土地の高低差が見られ、これらが城塁の名残であると思われる。一段くぼんだ堀の跡も認められ、そのうちの一部は池になっている。これは水堀を利用したものと見てよいだろう。
 















 城址の一端にある堀田稲荷神社。方6,7mほどで周囲より2mほど高いところにある。櫓台といった感じである。この周囲も水堀が取り巻いていたのであろうが、一面の畑地になってしまっている。




































大竹屋旅館

Ads by TOK2