栃木県小山市

*参考サイト 日本を歩きつくそう  埋もれた古城

*鷲城の攻防戦については、粕尾城のページに詳しく述べています。

鷲城(小山市外城) 

 鷲城は、小山祇園城の南西2km、思川にかかる国道50号線の小山大橋のすぐ南側のこんもりとした河岸段丘上にあった。先端部には鷲神社が祭られている。

 鳥瞰図は西側上空から見たものである。城は大きくわけで、中城、外城という2つの大きな郭からなる。(その南側にもう1郭あったかもしれないが、現状では確定はしない) 直線連郭式の城郭である。中城には大規模な堀や土塁が残っているが、全体に大造りな印象を持つ構造で、あまり技巧的とは思えない。しかし興味深いのは中城と外城との間の堀で、これは深さ10m、幅は12,3mほどはある。堀の両端で、中城のほうが外城よりも4,5mほど高くなっているが、これは中城側に高い土塁を築いているからである。この堀は川のほうに向かっていくと、(あ)のところで段差を持っている。この段差は2mほどで、その先の西側の部分は水堀であったようだ。その堀の西側には土塁(い)がある。この土塁は幅の広いところでは6mほどもあり、ちょっとした小郭とでもいえそうな大きさである。段差の部分も含めて、川からの攻撃を意識した構築物であるのか、それともあるいは船溜りか何かであったのかもしれない。

 この土塁と外城の城塁との間には虎口と思われる切れがある。あるいはこれは後世に切られたものであるのかもしれないが、川の側からの入口の虎口であったということも十分考えられるであろう。

 中城の中心付近に、深さ1,5m、長さ4mほどの浅い堀と土塁がある。鷲城の郭内を仕切るためのものであったのだろうか。

 外城の外にも堀があったが、こちらは道路や宅地が立て込んでいるためにほとんど確認できない。あちこちに段差が認められる程度である。

 しかし、謎なのは、城の東側の区切りがどうなっていたのかということである。現状ではただ広々と平野部が広がっているだけに過ぎない。城は河岸段丘の西端に築かれているので、台地続きとなる東側との区画が防御的には最も重視すべき部分であるはずだが、こちらには深い堀などの痕跡はない。早い時期に埋められてしまったということであるが、それしても少しは痕跡があってもよさそうであるが、ざっと見た所、分からなかった。鳥瞰図では堀があったことを推定して描いているが、旧状がどのようであったのかは不明である。


 中城郭内にある堀。左側が土塁となっているが、深さ、幅ともに防御的なものではない。堀というより、溝といった程度のものである。郭内庭園の池の名残の可能性もある。


















 先端近くにある鷲神社。先端部には土塁もなく、自然地形とあまり変わりがない。


















 中城と外城との間の堀。写真は外城側から見たものである。深さは10m以上あり、中城の城塁をよじ登るのはかなり難しい。ここにも「めくるめくばかりの堀」があった。
 

















 (あ)の空堀は途中で2mほどの段差を持ち、その先が水堀となる。写真の中央部分がその段差なのであるが、この写真ではちょっと分かりにくい。

















 今度は(い)の土塁の上からその段差を見てみた。えぐるようにして掘られているのが分かるであろうか。


















 (い)の土塁と外城の城塁との間に切られた虎口。一応、旧状のものと考えておく。



















 外城の外側の堀があった辺り。ご覧のとおりの状況で遺構は見るべきほどのものではない。この道より、斜めに左手奥の方向に堀が走っていた。現在でもあちこちに段差は認められるのだが、大部分が宅地の中に埋もれてしまっている。















 鷲城は、小山氏の有力な支城の1つであった。小山氏の本城は、北東2kmほどの所にある祇園城であったと思われるが、南の長福城、鷲城、西の中久喜城などが一体となって小山本城を形成していたのであろう。鷲城は1300年代には小山義政によって築かれていたというが、中城の空堀など、戦国期にかけて徐々に拡張されていったものと思われる。


























大竹屋旅館

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