青鳥(おおどり)城(埼玉県東松山市石橋字城山)

 青鳥城は国道254号線の北側、関越自動車道東松山インターの西600mほどの所にあった。もともとは100m四方ほどの本郭を中心に2郭、3郭を展開した広大な城郭であったらしいが、現状では3郭の堀はほとんど湮滅し、宅地、国道、高速にあちこち削られて、遺構は残存状況は部分的である。

 鳥瞰図は南西上空から見たもの。本郭はほぼ完存しているが南側の堀は道路となって消滅している。本郭の土塁も、南側は宅地となって消滅してしまった。虎口がどこだったのか分かりにくいが、どうも西側にあったらしい。この本郭の堀は深さ5m、幅6mほどの薬研堀だが、底の方には水路が通っていた可能性がある。前面の堀はおそらくかなり幅広の水堀であったと思われ、そこに接続していたのであろう。しかし、この堀は宅地の奥なので、探索するのが大変だ。それになぜか非常にくさい。何だろうこの匂いは? 近くに鶏糞の工場でもあるのかもしれない。ここに住んでいる人はたまらないだろう。

 2郭の堀は、東側部分がわずかな段差になってしまっている以外は比較的よく残っている。しかし、これも宅地の奥だったり薮だったりで、見るのが大変だ。しかし(あ)の虎口辺りははっきり遺構が分かる。堀の深さは3m、幅6mほどだが、これも水堀であった可能性が高いと思う。土塁は郭内からの高さ2mほどである。(あ)から進入した辺りには正中2年(1325)の板碑が建っている。

 3郭の堀はすっかり湮滅している。しかし、本郭から北に500mほどの所にかつては土塁が残っていたらしい。また、北東の一部分は「おため池」として堀の一部が残っており、この堀が広い水堀であったことが分かる。

 青鳥城は、もともと青鳥判官藤原恒儀という者の居館であったというが、このことについては定かではない。はっきりと確認できるのは「小田原衆所領役帳」に「狩野介四十貫目、比企郡青鳥居、久米新左衛門四十五貫松山筋石橋」という記述であろう。これによれば青鳥城主は狩野介もしくは久米新左衛門であったのであろう。この両者は一族であったのかもしれない。また、戦国末期には山田直安が居城していたともいう。山田氏は後に徳川家に使え、300石の御家人となった。

 いずれにせよ、もとは単郭方形の居館であったものを、拡張していったものであろう。





 (あ)の虎口を3郭側から見た所。内部に入ってすぐ左手に正中2年の板碑がある。この堀も西側は青いトタンで隠されているので内部は見られない。この辺りから工場の敷地なのかもしれない。
















 この部分の土塁を拡大して見た所である。こうして見ると、しっかり築造されているのが分かる。

















 この虎口脇の堀。草がぼうぼうでうまく写せないが、かつては水堀であったろう。

















 本郭内部は一面の畑地だ。周囲の土塁はきちんと高く盛られている。内部からの比高2mほど。写真は(い)の辺りから、南側を写したものである。


















 





















大竹屋旅館

Ads by TOK2