栃木県二宮町

*参考サイト  日本を歩きつくそう!  野州攻城記   *参考資料 「芳賀の文化財」

桜町陣屋(二宮町物井105番地)

 桜町陣屋は、遺構はともかくとして、国指定史跡となっている。陣屋で国指定の史跡と言うのは珍しいが、これもひとえに二宮金次郎に関わる陣屋であったからであろう。地図にも「桜町陣屋跡」「尊徳資料館」「桜町史跡公園」などといった項目が載っているので場所はすぐに分かると思う。

 陣屋跡は広場となり、その周囲には土塁が巡らされている。土塁の高さは1mほどでそれほど巨大なものではないが、南の虎口には、写真のようにしっかりと枡形が構成されているのがよく分かる。基本的には方100mほどの単郭のものだったであろう。堀の跡なども溝となって残っている。また、この周囲にも、土塁の残決や堀の名残などが認められる。外郭部か、周辺にあった侍屋敷の名残であると思われる。

 桜町陣屋は元禄12年(1699)、小田原藩大久保家の分家宇津氏がこの地に陣屋を構えたのに始まる。当初4000石の領地があったというが、その後次第に土地が荒れ果てていき、後には1000石にも満たない貧しい藩になってしまったという。そこで農村復興のために抜擢されたのが、相模小田原出身の二宮金次郎であった。金次郎は文政6年(1823)、この地に赴任してから26年もの間、財政再建に努めた。彼の手法は後に「桜町仕置」と呼ばれ、他の諸藩の範になったという。

 陣屋の建物は、彼が赴任した時に建設されたもので、現在に至るまで受け継がれている。





厚木城(二宮町沖字厚木)

 二宮町の中心部を五行川が流れているが、この川の東側の河岸に厚木城があったという。高畦橋の南800mほどの所で、写真は五行川桜づつみの辺りから城址方向を見た所である。川の流れも当時とも変わってしまったのであろうが、この地域全体が耕地整理によって水田を造成しているので、遺構は跡形もなくなってしまっている。ここに限らず、二宮町の中世城館はみな同じ運命をたどってしまったようである。

 かつては方110mほどの居館があり、城主は厚木美濃守朝高であったという。鎌倉時代、厚木朝高は芳賀七郎高義の三男で、叔父の芳賀建高とその子高経が、主家宇都宮興綱への反逆を企てたときに、これを諌めようとして失敗、相模國厚木に赴き、北条氏に仕えたという。その後、結城晴朝にしたがって再びここに戻ってきて、厚木城に復帰した。

 天正年間、厚木城は水谷蟠龍斎に攻められて落城したという。












大曾城(二宮町上大曾字堀ノ内)

 県道316号線から西側に200mほど入ったところに写真の八幡神社がある。この辺りの地名を「堀ノ内」といい、大曾城はこの辺りにあったものと考えられる。八幡神社の境内にはゲートボール場があり、近所のご老人たちがゲームをしていたので、城のことをいろいろと尋ねてみた。しかし、「城があったとは聞いていない」という話ばかり。それでもあれこれ伺っていると「この辺りは堀ノ内という所で、昔は堀が取り巻いていたが、耕地整理ですっかり埋めてしまった」といったことを伺うことができた。

 「堀ノ内」の字から、比較的に古い時代に居館が営まれていたところらしい。堀や館の規模もそれほど大きなものではなかったらしい。

 ちなみに「信号を越えて東に300mほど行った所に高い土手がある」という話を聞いて、そこも訪ねてみた。確かに高さ3mほどの円形の大規模な土手が水田中に残っており、その上には神社が祭られている。しかし、これは城の遺構というよりも古墳そのものであった。地元の方に伺っても「これは古墳だ」という話であった。

 大曾城は、長沼淡路守宗政の次男政能が、大曾地域を領有して築いたものだという。政能はそれ以後、大曾氏を名乗るようになる。その後、文明年間に長沼氏が滅亡すると、大曾城も没落して、館は廃されたといわれる。








長沼城(錦着城・二宮町長沼舘の内)

 長沼城は、長沼中学校の北東500mほどの所にあったらしい。長沼氏の本拠地らしく、かなり広大な城郭であったらしいが、遺構はすでに隠滅しており、城址の正確な位置も分からなくなってしまっている。ただし、現在でも、「舘の内」「宿の内」「道生(どじょう)」「東北門」「北門」「西木戸」「南宿」「北宿」といった関連地名が残っていて城の名残を留めている。。

 城の南西に長沼氏の菩提寺であった宗光寺があり、ここに堀の跡が見られるという。これが初期の長沼城の跡で、後に城は北東に移されたという。

 小山政光の次男であった宗政がこの地に居館を営み、長沼氏の元祖となった。鎌倉時代初期の頃のことである。戦国時代に活躍する皆川氏などもこの長沼氏の一族であった。また、成田氏の長沼城は、長沼氏の一族が成田に来て築いたものだといわれている。

 その後も長沼城は長沼氏代々の居城であったが、室町時代に入ると、鎌倉公方と古河公方との争いに巻き込まれていくこととなる。長沼氏12代成宗は、古河公方成氏方に加担していたが、反公方勢力の上杉勢らに攻撃され、文明3年(1471)、城は落城し、長沼氏も滅びてしまったと言われている。

 写真は城址辺りにあるお堂。







長沼古館(二宮町長沼)

 長沼城の方は遺構が壊滅状態にあるが、その南側の宗光寺の周囲には方形の堀の跡がはっきりと残されており、こちらが長沼城に移る前の古い館の跡であったのではないかと言われている。

 残存する遺構の規模からすると、100m四方ほどの方形の居館であったものと推定される。

 本堂の南西側には折れを伴った堀の跡が見られる。残存は部分的なもので、このうちの外側の部分が北側の堀に接続するような位置関係にある。方形の小区画を囲んで堀が廻らされていたようで、単純な方形居館とはちょっと異なる構造をしていたのかもしれない。

 北側の山林内部には、深さ4m、幅6mほどのしっかりとした堀が東西にしっかりと残っている。この外側には土塁が延びており、さらに外側に堀を備えた二重堀構造であったようである。
 
 古館という伝承の残る城館であるようだが、単純な古館というにしては、遺構がしっかりとしており、それほど単純な構造でもなかったようである。こちらが長沼城であった、というような可能性はないのであろうか。









本堂南西側にある堀跡。草木が刈られて見やすいが、残存は断片的である。 北側の堀跡。深さ4m、幅6mほどのかなりの規模のものである。外側に小規模な堀跡もあり、二重堀構造であったようだ。




平石城(鹿館・二宮町鹿字松原)

 鹿地区の北西部にあるので鹿館ともいい、物部小学校の南西600mほどの所にある。県道166号線を北上していくと、北鹿の辺りで県道は右に折れ曲がる所がある。この部分の北200mほど先一帯が城址であったという。

 例によって昭和27年頃の耕地整理で遺構はすっかり失われてしまったということであるが、写真のお宅の周囲の土手はちょっとアヤシイと思う。石垣模様のコンクリートブロックで覆われているので、一見分かりにくいが、これはもともとは土手であり、もしかすると城の土塁の名残なのかもしれない。ただし、このお宅の人に話を伺うことができなかったのでなんとも言えない。

 城址の付近を小川が流れている。かなりの推量があり、灌漑用水として用いられているのだと思うが、かつての平石城もそうした川の水を取り入れて堀を形成していたのかもしれない。

 天文年間、宇都宮尚綱の家臣平石左兵衛助重は、軍功によって鹿の地を賜った。そこで築いたのが平石城というわけである。

 事実かどうかははっきりしないが、この城に関する伝承はいくつかある。天正12年(1584)、物井の高堤において平石氏の家臣と水谷氏の家臣とが口論となったが、やがて和睦し、水谷家に出入りを許されるようになったという話、翌13年、水谷、宇都宮の両氏が物井の小堀切において退陣したときには平石隠岐守弁悦が仲裁して和睦したという。これらの話から、平石氏は宇都宮領と水谷領との境界を守る重要な位置を居館としていたということが創造できる。

 後に宇都宮氏が改易となると、平石城も廃城となった。






峰高城(二宮町物井字峰高)

 二宮町物井の峰高413番地辺りを中心に城郭が展開していたという。しかし、耕地整理によって遺構は消滅している。二宮町の城館はみんなそうである。「芳賀の文化財」では「かつて4重の堀を巡らせていた」とある。地元で話を伺ったところ、「三重の堀があった」という話を伺うことができた。城は消滅してしまっているものの、峰高城のことは地元ではよく知られており、お話を伺った人はみな城のことを思い出話とともに語ってくれたのであった。

 かつてこの場所は、「山」であったという。山といっても本格的な山があるはずもないので、ちょっとした微高地があったということなのであろう。それを利用して三重z(あるいは四重)の堀と土塁と巡らせた環郭式の城郭が存在していたのである。堀の幅は10m、土塁の高さは3mほどもあり、子供の頃はその土塁によじ登って遊んだとか、堀は深くて沼のようになっており、そこでよく魚釣りをしたという話などを伺った。終戦直後の食糧危機の時に、山を削って大規模な水田を造成したということであるので、これらの思い出話というのは、みな60年近くも前のことになる。語ってくれたのも70過ぎくらいの方たちである。しかし、そうして思い出を語る時には、人はみな少年のような目に戻るものである。

 写真が城址の辺りであるが、どの人に聞いても「遺構はまったくない」という。周辺を散策してみると、若干の低地となっている水田があり「これは堀の跡ですか?」と尋ねたが、しかし、遺構ではないといわれてしまった。というようなわけで、完全隠滅といっていいのかもしれない。

 城の歴史等は不明である。伝承では、「八幡太郎義家が奥州征伐の際に、この地に一夜で築いた城」ということであるが、四重に堀と土塁を巡らせていたという形状は、戦国期のものであろうから、戦国期にいずれかの勢力によって築かれた、あるいは改修された城と見るべきではないかと思う。






























大竹屋旅館

Ads by TOK2