長篠城と周辺遺跡  

     

長篠城(愛知県鳳来町長篠)

 長篠城は豊川と宇連川とが合流する地点に築かれている。この2つの川の削る河岸段丘は比高10m以上の断崖となり、まさに天然の要害といった感じである。
 
 台地続きの部分は、平地になっているので、この方面には何重にも堀を掘っていたようである。しかし、現状では本丸、野牛曲輪、弾正曲輪以外は区画が明瞭ではない。堀の跡らしい部分は所々に見られるが、明確なものではなく、外郭部の堀はたいして規模の大きなものではなかったのかもしれない。

 特に、瓢曲輪は、大通寺山と接しており、ここが武田氏の陣地として取られてしまったのでは、もう城は終わったようなものである。勝頼陣地にしてもそうだが、こんな近接地を押さえているのに、どうして城が落とせなかったのかふしぎである。

 武田方の陣地は宇連川の南の尾根にも5ヶ所ほどある。しかし、宇連川越しにこの城を攻めるのはきわめて難しいと思われるので、どうして、鳶の巣文殊山などに布陣していたのかちょっと理解しにくい。徳川軍もわざわざ迂回して鳶の巣山を攻めるよりも、武田本陣の背後を突いた方がよいように思えるのだが、しかし、そこには現代人には分からない戦略的なポイントがあったのかもしれない。

 「長篠日記」などをみると、兵糧攻めにするためにこれらの2つの川を抑える必要があったようで、鳶の巣山近辺の布陣もそういう意味で必要だったのかもしれない。



















04.3.27、長篠ツアー参加のレンジャー隊メンバー。長篠城の野牛曲輪の下の川原にて。この後、石を投げて水切りをして遊んだのであった。 よく本に載っている長篠城の遠景写真。左の写真の橋の上から撮ったものである。豊川の削った川岸は、岩盤むき出しでまさに天嶮の要害であった。
本丸と弾正曲輪との間の堀。堀というよりは天然の沢と言った方がよいのかもしれない。 本丸の堀。しっかり横矢が掛けられている。深さは城内側から8m、二の丸側からは5mほどである。
反対の角度から本丸堀を見た所。正面突き当たりに見えるのが、長篠城史料館。 弾正曲輪との間にある滝。豊川が断崖になっているために、そこに注ぐ小川は、このような滝となるのである。
豊川に架かる鉄橋。この上を通るJR飯田線は、城内を分断して走っている。 本丸脇の豊川。きれいな水である。所々渕となっており、川遊びや釣りをするのによさそうな所である。左側の河岸段丘の上辺りが、鳥居強右衛門が磔にあったと伝承されている場所である。
城内を分断して走る飯田線。右側が本丸。左側の一段低い所が野牛曲輪である。 弾正曲輪の堀と石垣。本物らしく見えるのだが、この石垣は後世のものであろう。
弾正曲輪の北側の堀跡。これが本来の城塁の名残であろう。城塁の高さは4mほどであるが、幅は15、6mほどある。 豊川対岸にある鳥居強右衛門の墓。「鳥居強右衛門公墓所」の案内板があるが、一介の足軽が「公」とは出世したものである。墓も、長篠にある誰の墓よりも立派である。大名クラスの墓と言っていい。
長篠城の北1kmほどの所にある武田勝頼本陣跡。小規模ではあるが3郭あり、堀切、土橋なども残っている。いわゆる陣城というやつである。比高50mほどの台地の先端で、山上には写真の展望台がある。 長篠城の三の丸のすぐ手前にある大通寺山。ここはここにも武田軍の陣地が置かれていたという。しかし、図を見るとすぐ分かるが、大通寺山は長篠城とほぼ接している。ここを陣地に取られるようでは、城はどうにもならない。ここには遺構らしきものは特にないが、かなり広い削平地がある。
天神山にある天神社。この上は真田氏の陣地の跡である。

 

 設楽が原古戦場

 織田徳川連合軍と武田軍とが激突した設楽が原古戦場は、長篠城の西3kmほどの所にある。台地の間の幅200mほどの狭い範囲が戦場となった。

 西の台地下には馬防柵が再現されているが、当時はもっと南北に長く、3列ほどの柵が巡らされていたのではないかと考えられている。また織田徳川軍の背後の台地には段々の削平地が何段か見られる。これは明らかに人工的な地形であるので、戦いに備えて、織田徳川軍が構築したものと見てよいであろう。つまり、織田徳川軍は、戦場にただ柵を置いただけではなく、前面を造作して、腰曲輪のようなものを何段にも構築したのである。柵はこの段々にも置かれたのかもしれない。

 武田軍の陣地はわずか200mほど東側である。連合軍のこの造作を見れば、むやみな突出を控えたくなるのが人情というものであろう。実際天正12年の小牧合戦などでは、突出するのが不利になるのが分かっているので、徳川軍も羽柴軍も動けなくなっている。やみくもに突撃していけば標的になるのは分かりそうなものである。しかし、ここで武田は突撃して行ったのである。どうしてそんな戦い方をしたのか、その辺りがよく分からない。

 通説では、織田徳川軍の前に突撃してきた武田軍は、鉄砲のために次々と斃されていったということになっている。しかし、図を見ても分かる通り、武田軍の武将の墓は主に、東側の武田陣地周辺に集中している。彼らの戦死地がここで間違いないとするなら、武田の武将たちの多くは、馬防柵の前ではなく、自分たちの陣地のあった辺りで討死したということになる。また、鉄砲の玉が多く発見されているのもこの地であるという。つまり、「弾丸が最も多く発見され、武将たちも多く討死しているのは武田の陣地周辺」ということになる。このことをどう考えればよいのであろうか。

 武田の陣地で激戦が繰り広げられたとするなら、武田の退却に連合軍が付け込んで、そこで激しい戦闘となったということになるのではないだろうか。つまりこういうことである。

1.武田軍の戦闘部隊が、連合軍に向かって突出していった。

2.連合軍の鉄砲部隊の前に、戦闘部隊は破れ、退却を始めた。

3.それを見た連合軍はすかさず、追撃行動に出た。

4.戦闘部隊の退却で混乱しているさなかに正面からの大攻勢を受けて、東の武田側陣地で大戦闘が行われた。

5.この状態で、人数も少なく、戦闘部隊の退却に伴って混乱していた武田方は圧倒的に不利になり、多くの武将が討死し、結果、敗北した。
 
 この戦いの様相についてはさらに考えてみたいと思っているが、鉄砲だけが、勝敗の行方を決めたというわけではないようだ。

羽柴秀吉陣地。ただの水田になっていた。正面奥が、信長の本陣であった茶臼山。 武田側から見る家康本陣。やはりここでも家康は危険な最前線戦に陣取っていた。
丸山。始めは馬場信房が陣取っていたが、後には佐久間信盛が奪取した。 丸山から見る古戦場。右手が織田側、左手が武田側。両者の距離は直線で200mほどしかなく、指呼の距離である。
茶臼山にある信長本陣。いつものことながら、やはり信長は一番安全そうな所にいたのであった。 戦死者を埋葬したという信玄塚。しかしなぜ信玄? 信玄は埋まっていないと思うぞ。
竹広激戦地。左側の山麓に馬防柵が並んでいた。 柳田激戦地からみた馬防柵。
復元された馬防柵と土塁。土塁には銃眼などもあるが、実際はどうかなあ〜。 馬防柵の虎口。こちらは織田式。
馬防柵虎口。徳川式である。しかし、この考証が正しいのかどうかよく分からない。 丸山から武田勝頼観戦地を見る。ここで突撃したら普通負けるよなあ。どうして武田は突撃してしまったのか。


鳶の巣文殊山砦(愛知県鳳来町乗本)

 鳶の巣文殊山砦は豊川を隔てて、長篠城のすぐ東南側にある。ここに陣取ると、長篠城の周辺は丸見えである。しかし、間には豊川の断崖があるので、こちらからの攻撃は難しい。しかし、「長篠合戦絵巻」にも描かれている、野牛曲輪への橋が架かっていたのかもしれないので、そこからの攻撃を意図していたのかもしれない。しかし、武田の本陣は、長篠城と陸続きのすぐ北側に来ていたのである。こちら方面に兵力を集中させたほうが得策のような気がする。

 鳶の巣文殊山には図のように所々に柵平地がある。図の5の所に碑が建てられており、7の部分が最高所なので、砦としてはこの辺りがふさわしいであろう。実際、この辺りには土塁、堀切といった城郭構造物がいくらか見られる。しかし、それらはいずれも小規模なものばかりである。

 長篠城を監視するためには、1,2,3の郭辺りに布陣したほうがよさそうである。この場所なら長篠の敵が背後に回って攻撃してくることはなさそうである。しかし、決戦を前にして、徳川の奇襲部隊は延々背後を山稜を通ってきて奇襲したらしい。

 2と3の郭の下には段々の細長い腰曲輪が7段ほどに構築されている。これを砦の遺構とみるむきもあるようだが、これはどちらかというと、後世に畑を造った跡と見るほうがあっていると思う。

















長篠城の本丸から見た鳶の巣文殊山。間にJRの高架があるために、うまく写真が撮れない。 鳶の巣文殊山の2の郭を麓から見た所。斜面には何段もの腰曲輪状の削平地が置かれているが、これは、後世の畑作のために造られたものであろう。
5の郭にある、鳶の巣山の記念碑。 先端の1の郭。円墳のような整った円形をしている。






















大竹屋旅館

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