栃木県茂木町

*参考サイト  野州攻城記  日本を歩きつくそう!  *参考資料 『芳賀の文化財』

茂木城(茂木町桔梗山)

 茂木城は、茂木の町の北側にそびえる桔梗山と呼ばれる比高80mほどの山上にある。茂木の町のどこからでもこの山の威容を仰ぎ見ることができ、領主の居城として実にふさわしい場所である。町の側から見るとこの山は独立山に見えるが、実際には北側から南に張り出した広大な台地の先端部にあたる。しかし、途中にネックの部分があり、また先端の方が地勢が高いことから、独立山に近く、城郭を置くには絶好の立地だったといえるだろう。

 この城も10年ぶりくらいに訪れた。以前に来たとき(1980年代)は、(か)の郭の奥の、台地基部の様子を見ることができなかったので、今回はそちらの方もちゃんと見ようと思ったのだが、夏草が茂っていて、残念ながら接近を阻まれてしまった。したがってそちらの方は縄張り図を見て想像するしかなかった。

 鳥瞰図は東南側上空から見たものである。この城の構造の最大の特徴は、広大な台地の縁の部分に円形状に郭を配置して、それに囲まれた中央部が一段低く、広場のようになっていることである。もう少し詳しく言うと、城の中心を(あ)の本丸、(お)の郭、(か)の郭などがぐるりと取り巻き、それらの郭の間には空堀が掘られている。また先端の東南側には(け)の郭がある。これらの郭に囲まれた中央部分は直径150mほどの円形に近い広場(まさにサークルで、その中心部には一段低い窪みがあり、そこが池になっているのである。この円形広場がどういう意味を持っていたのかが、この城を理解するためのキーになるような気がしてならない。まるで宗教的な空間、あるいはスタジアムのようでもある。

 ここは実は「千人溜り」と呼ばれていて、兵揃えを行うための空間であったらしい。また軍の後には点呼も取られていたという。文字通り、千人の武士を並べられるだけのスペースがある。しかし、それよりもこの空間を見ていて、まるでお祭り広場のように感じてしまうのは私だけであろうか。現在でも町で何かイベントを行う時、ここは実にいいステージになりそうである。周囲の高い郭にギャラリーをたくさん収容することもできる。昔だって、ここで領民たちを集めてイベントを行ったら楽しそうだ。1年1度、領民たちがここに集まり、盆踊りを踊ったりしているのを本丸から城主が見ているという図式は如何なものであろう。そこで過ちがたくさん起きて、子供が生まれて人口が増えれば領主にとってもそれは目出度いことではないか! というのは冗談であるが、そういうことも想像できるくらいに珍しい縄張りであるとは言えると思う。

桔梗山の南を流れる逆川から見た城山。この川が城下町を城内とを区画の役割も果たしていた。比高80mほどであるが、山自体が大きいので、もっと高く険しく見える。
これがそのお祭り広場。中央の窪んだ部分が池の跡である。正面突き当りが(か)の郭で、その先に横堀と、土手があって一段低い台地基部と接続しているらしい。

 この日は猛暑で、水が干上がってしまったものと見える。ここでお昼を食べたのだが、昼頃は35℃という暑さで、広い城内を歩いているだけで後から後から汗が噴き出してくるのであった。
本丸城塁下の水堀跡。菖蒲園のようになっており、木橋の遊歩道がついているのだが、この日はやはり水はほとんど枯れてしまっていた。 本丸と(お)の郭との間の空堀。深さ7m、幅10mほどである。本丸側には6m四方ほどの枡形的な空間が付属している。これが搦め手の虎口なのかもしれない。というのは本丸城塁のこの辺りだけは、あまり急斜面になっていないからである。
先の水堀の先の(う)「鏡池」。この台地上には湧水点が何ヶ所かあったらしい。
この池の上の(お)の郭は30m×90mほどあり、城主の居館が営まれていた所であったという。現在は一面の杉畑である。夏だが下草が刈ってあって自由に歩き回ることができる。地元のみなさん、ご苦労様です。

 写真は(お)の郭と(か)の郭との間にある空堀。深さ6m、幅10mほどある。堀底は(お)の部分の先まで続いて、その先は絶壁となっている。
(か)の郭の北の先は、台地基部との接続部分に当たるので、横堀が掘られている。写真は(か)の郭の城塁である。映りがよくないが、一番右側に城塁。その左下が横堀深さ6m幅8mほど)。そしてその左側に2mほどの高さの土塁が築かれ、そのさらに左側が絶壁となっている。 お祭り広場から本丸城塁を見てみた。本丸城塁は実にきれいに形成されている。さすが近世までも用いられた城郭である。
お祭り広場から、(か)の郭を見てみた。二段構えになっており。広場側からの防御も考えていたことが分かる。 (く)の辺りから(け)と(い)の間の空堀を見た所である。深さ5m、幅8mほどで、横矢が掛けられている。この写真では見えないが、その先の部分に復元された橋がある。
 (け)の郭下の腰曲輪(こ)に建造された模擬櫓。写真の印象とは違い、実際見るとかなり大きな建物である。4階建てで、上からの見晴らしはすばらしい。模擬天守だとうそっぽいが、この程度の物見櫓だと、考証に忠実なのか、模擬なのかよく分からなくなる。さて、これを模擬天守と見るならこのページの天守のコーナーで紹介するのであるが、しかし、さすがにこれはそこでも紹介してはいない。ここは茂木城であるので、茂木天守とでも言った方がいいのかもしれない。、

 この炎天下でも、最上層は風の通りがよくて涼しかった! しかし一歩外に出ると、そこは37度の灼熱地獄だ〜。真夏の城攻めはつらい・・・・・。
これがその復元橋。旧状はここまでアーチ状になってはいなかったと思うが、まあ、こんな木橋があったことは間違いないのだろう。
本丸の虎口である。両脇が櫓台のように張り出している。両横矢掛かりとでもいった形式である。 土塁上から本丸を見てみた。30m×100mほどの広さである。ここにはブランコ、滑り台など、子供の遊び場がたくさんあるのだが、夏休みの休日であるにもかかわらず、この広い城内には他に人っ子一人遊びに来てはいない。やはり暑すぎるから?

 土塁はわりと高く、3mほどはある。削り残しによるものだろう。
本丸城塁の上から(え)の堀切方向を見てみた。本丸の城塁下には腰曲輪などは設けられていないが、ご覧の通りの急斜面である。そんなものも必要なかったのであろう。
茂木城は、宇都宮氏に属した茂木氏の城であった。茂木氏の祖先は八田知家の3男知基である。戦国期に茂木氏は宇都宮市と共に佐竹氏と結んで、北条氏と対立した。そのため北条方の結城氏と戦って破れ、一時期茂木を追われた事もあったという(天正13年)。その後、茂木氏は佐竹氏の力を借りて城を奪回し、それ以降は佐竹氏に属するようになる。文禄3年(1694)、佐竹領内の配置換えで茂木氏は小川城に移り、代わって須田美濃守治則がやってきた。しかし、関が原の役後、佐竹氏が秋田に転封になると、茂木城も明け渡された。

 その後一時期、徳川直轄領となり代官支配になったこともあったが、慶長15年(1610)には細川忠興の弟興元が1万石で封ぜられ、やがて明治維新を迎えるに至った。 

*03年の夏は雨の城攻めが多くて、考えてみると、こんなに晴れたのはこの夏初めてである。それにしても暑かったなあ・・・・・。




飯村城(茂木町飯村字城跡)

 県道206号線をはさんで、逆川中学校の北東一帯辺りが飯村城の跡である。逆川に臨む比高10mほどの段丘上で、かなり広大な城であったかと思われるが、宅地化や老人保養施設「ききょうの里」が建設されている関係で、遺構の多くは失われてしまっている。なお、この「ききょうの里」は近年この地に移ってきたようであり、古い地図では飯村城の北東600mほどの所に記しているのもあるので間違えないようにしよう。

 鳥瞰図は帰宅してから思い出して描いたもので、歩測も何にもしていないので、形や方位が違っているかもしれないので注意していただきたい。

 台地の北端の一段低い所に、飯村城の城主飯村備前守の御子孫かと想像される飯村家がある。飯村さんには親切にいろいろとお話を伺うことができた。どうもありがとうございました。

 この辺りは「北曲輪」という古名が示すように、本城部分より北に5mほど下がった先端の郭であったものだろう。北曲輪の南側にはAの虎口状の部分がある。西側には空堀が一部残っており、東側は下におりていく切通しの道となっているのだが、おそらくこれは空堀とつながっていたと考えられる。

 北曲輪の北側には深さ7mほどの深い堀が現存している。まるで舟入りのように大きく入りこんだ部分である。そしてその北側にはL字型に深さ1mほどの浅い堀が取り巻いている。この辺りがちょっと複雑な構造で、どういう仕組みになっていたのか気になるところである。二重堀のようにも見えるのだが、堀が途中で切れているためにもともとどういう構造になっていたのかわからなくなってしまっている。また、この近くには古い五輪塔もある。これは飯村城主に関連する墓ではないかと想像する。

 明確な遺構が残っているのは以上の部分である。他にも台地上にはあちこちに微妙な段差があるが、後世の改変もあるようで、どうも復元してみるのは難しい。城内、中城といった地名も点在しており、堀によって区画された数郭がかつてあったことは間違いないと思う。大楽寺の西側の道や、そのさらに西を走っている県道206号線は切り通しのようになっており、これがもともとの堀の名残である可能性もある。

 主郭部分はどこに求めるべきであろうか。台地の北端辺りにその位置を想定するのが一番ありそうな感じがするが、この辺りはみな「ききょうの里」の敷地となって均されてしまっている。

 飯村城はそこそこ規模の大きい城郭であったようだが、原型はどうもよく分からなくなってしまっている。

Aの虎口周辺。左側の先には空堀の一部が残っている。右側は台地下に降りていく道であるが、切り通しになっており、もともとは上の空堀と接続していたのではないかと考えられる。 これがその空堀。深さ3m、幅5mほどの堀で、大楽寺方向に延びているが、途中から埋められてしまっている。
中城辺りの土壇の上にある五輪塔。城主に関連するものであろうと想像する。 北曲輪背後の土塁と堀。深さ7m、幅15mほどあり、かなり規模は大きい。この手前にL字型の浅い堀が巡っている。
上の大きな堀の外側を巡るようにしているBの堀。深さ1m、幅3mほどの小規模なものである。 逆川方向から見た城址。左側が城のある台地であるが、比高はそれほど高くはない。
 飯村城は益子氏に属した武将飯村備前守の居城であったといわれている。飯村氏はもともとは東600mほどの位置にある根古屋城にいたが、明徳3年(1392)、城をここに移したという。しかし、根古屋城の方はもっと新しい時代のもののようで、この年代が正しいのかどうかよく分からない。



飯村根古屋城(茂木町飯村字根古屋)

 飯村根古屋城は、飯村城の東600m、「根古屋」と呼ばれているところにある。比高20mほどの台地先端部を利用したもので、基本的には30m×40mほどの単郭構造であるが、途中の斜面には段々の腰曲輪を設けている。2の腰曲輪の上は自然地形の斜面となっているが、この部分の斜面は比較的緩やかであり、これを切岸にするためと、主郭を何段階かに防衛するという2つの目的から、こうした段々の腰曲輪が設置されたのであろう。

 1郭の南側が尾根続きになるため、こちらの方向には高さ2mほどの土塁を築き上げ、さらにその南側に二重堀切を入れて、念入りに防御しようとしている。二重堀切のうち、内側の堀は深さ5m、幅7mほどあり、なかなか雄大なものである。この堀は西側にかけて横堀となって1郭の下を囲んでいる。この横堀は北に向かうにつれてしだいに地勢が下がっているが、途中にL字にクランクしているところがあり、その辺りに虎口が設けられていた可能性がある。また1郭北側下では、横堀の外側の土塁がかなり低くなっており、ただの腰曲輪のようになっている。

 二重堀の外側の堀は、内側の堀に比べるとかなり規模は小さく、深さ2m、幅4mほどのものである。

 2の腰曲輪は幅5,6mほどのものだが、その下の3の腰曲輪は幅10m以上あり、かなり規模が大きいものである。3の腰曲輪にはさまざまな施設が置かれていたのであろう。

 現在の途上道は台地の西側の側面を通り、直接に1郭下まで上がるようになっているが、もともとはこれらの腰曲輪を経由していくようになっていたのかもしれない。ただし、4の三角形の郭は、現在の途上道を狙撃できるように配置されているので、この辺りの道は元のままである可能性も高い。

 なお、この城は下のお宅の私有地となっている。見学の際は必ず一声かけてからにしてください。


飯村城方向から見た根古屋城。麓に立ち並ぶ家は、そのまま昔の根古屋の名残のようにも見える。 二重堀切のうち、内側の堀。深さ5m、幅7mほどで、堀底は東側が最も高く、西に向かって地勢は下がっていく。
二重堀のうち、外側の堀。深さ2m、幅4mほどで、やはり西側に向かって傾斜している。 西側に開かれた1郭の虎口。両脇には高さ2mほどの土塁が盛られている。
1郭内部の土塁の様子。高さ2mほどで、南側をぐるりと取り囲んでいる。 2の腰曲輪から下の3の腰曲輪を見た所。3の腰曲輪がかなり広い削平地となっており、主要な郭の1つであったことが想像できる。2の腰曲輪との比高差は3mほどである。
 飯村根古屋城は、飯村城に移る前の飯村氏の居城であるといわれる。伝承では、飯村氏は明徳3年(1392)には飯村城を築いてここを引き払ったといわれるが、この城の構造から見ると、もっと後の時代まで使用されていたのではないかと想像される。



小貫城(茂木町小貫字中城)

 小貫地区は岩瀬方向から北上すると直接には行きづらいところにある。地図を見て「山口地区から奈良駄峠を越えていけば楽勝じゃん!」と思って入り込んだのはいいが、ひどい悪路でさんざん車を痛めつけ、結局引き返さざるを得なかった。この道は車は通れない。この途中に採石場があり、今はダンプしか通らない道のようだ。しかも途中からは完全に荒れてしまっている。県道1号線か、286号線で接近するしかない。

 小貫地区には安養寺と二荒山神社があるが、城はその南200mほどの所である。この寺院と神社の入り口の辺りに公民館があるが、その40mほど南側の低い台地上が城址である。

 城は西側から延びる尾根の先端の幅広くなった部分を、背後に二重堀切を入れることによって独立させたものである。1郭とその背後はもともと緩やかな斜面であったのであろう。ここを独立させるために巨大な堀切4と土塁を組み合わせてかなり大変な造作を施している。この堀に面する1郭の城塁は明確な横矢の折れが形成されているのが目を引く。堀内部が枡形として使用されていたようにも見える。実際、、接続が木橋によるものでなく、いったん堀底に下りるものであるとしたら、そうした機能を持たせたとしても不思議はない。堀4の西側先には堀3もあるが、こちらはそれほど大きなものではない。

 1郭は長軸50mほどの郭で、この郭を最高所として、比高3,4mほどで下の小川に向かって数段がひな壇のように配列されている。家臣団屋敷のようなものであったろうか。1郭には墓碑類がいくつも転がっているが、ある時期、寺院でも置かれていたのかもしれない。

 この城で特徴的なのは6の切れ込み部分である。深さ6m、幅8mほどで、枡形に切れ込んで1郭と接している。いわゆる枡形虎口というには、周囲の塁が高すぎるので、枡形とはいいかねるが、何のためのものであったのか不思議な構造である。1つ考えられるとすれば、敵を誘い込んで殲滅するための迎撃空間とでも言うべきであろうか。あるいは、後世、何らかの理由で削られた跡にすぎないのかもしれないが・・・・。

 2の郭の下は、それぞれの郭の間の比高差も少なく、敵が簡単に取り付けそうなレベルで、あまり要害性の高さを感じられない。城というよりも、居館といった方が、実態に合っているのかもしれない。

北側から見る小貫城。脇下の畑からの比高5mほどの段丘上である。 6の舟入りのような形の堀切。敵を誘い込み殲滅するための仕掛けであろうか。
1郭背後の4の堀。深さ4m、幅8mほど。写真は横矢の折れのある部分。右側が1郭である。 4の堀の外側にある5の堀。といってもこちらはそれほど明瞭なものでなく、深さ1m余り、幅は3mほどである。
1郭背後の土塁は高さ3m近くもあり、一見土塁ではなくただの土手のようにも見える。 1郭から見た下の2郭。一面の畑である。



上菅又館(茂木町上菅又字堀之内)

 上菅又館は、坂井川に臨む比高20mほどの台地上に築かれていたらしい。宅地・畑地となっているが、土塁の一部が残っているという。「堀ノ内」という地名、「寺前」「惣宮」といった屋号の家があるという。

 航空写真を見てみると、確かに館跡のように見える畑が見えている。Aの部分である。いかにも城館を築きそうな地形であり、これが館跡なのかもしれない。ということで、北西側の台地下から、この畑に向かって登ってみた。しかし、畑の周囲には遺構と思われるものは見られず、自然地形のままであった。

 しかし、この畑入口に当たる台地基部のBのお宅の脇には土塁が残っていた。民家の敷地内であるので、遠目にしか見ていないのだが、あるいは、このお宅のある場所が館跡なのかもしれない。下の写真の土塁は民家北側に位置するものであるが、『芳賀の文化財』の解説では「北側と西側に土塁を残す」とあるので、この土塁は西側にも続いているのかもしれない。未確認であるが。


 城の歴史等は不明であるが、館跡は川上家のお宅となっているそうなので(Bのお宅のことであろうか)、城主は川上氏であったのかもしれない。このお宅には「茂木系図」が残されているということである。川上氏は千本氏の家臣であった川上左衛門がその先祖であるという。










西側から見た、北菅又館のある台地先端部。水田面からの比高は20mほどである。 Bの民家脇にある土塁。ここが館跡なのだろうか。




北小屋城(茂木町飯野字北小屋)

 国道123号線は「下飯野」の辺りで、西上の台地の形状に沿ってU字型に湾曲しているが、この湾曲している部分の上の台地が北古屋城の跡である。「芳賀飯野」というバス停の辺りから台地上に上がることができる。台地の中央やや低い所に天満宮が祭られており、そこがゲートボール場になっていた。

 台地上は耕地整理が行われたと見えて、城の構造はもはやよく分からなくなってしまっている。台地の上で聞いたところ、台地縁部にある一軒のお宅が城跡であるという。確かに「芳賀の文化財」の図面でも、その辺りを主郭としている。そのお宅の近くまで接近してみたが、遺構があるようにも見えなかったので、敷地内にはお邪魔していない。

 しかし、台地には所々に土塁の残欠のようなものが見られる。高さ1mほどのものや2mほどあるものまでもあるが、これが遺構なのかどうか。これらが遺構だったとしても、すでに堀は埋められてしまったようで、土塁の形状も削り残しといった感じである。先に挙げた縁部のお宅が主郭とすれば、その外側の郭の堀と土塁の名残と見ることもできるが、旧状をうまく復元することができない。

 また、台地下の国道とその東側の水田も堀の跡であるという。もしその通りなら、台地縁部に深さ10mもの巨大な堀を置いていたことになる。


 その後、再訪して、本城と思われる付近の探索をしてみた。やはり城の形状を明確に把握できるような遺構はほとんどなかったのだが、本城西側の切通しは、かつての堀切であるのかもしれない。『芳賀の文化財』に掲載されている北小屋城の写真は、この堀切から撮ったものであるように思われる。

 本城部分の西側には土塁が見られ、北西端に神社が祭られている。本城内部は大きく削り取られていた。一見、大規模な井戸のようにも見えるくぼみであるが、削り方が新しい。明らかに後世のものである。












北側から見た北小屋城。台地の縁部を利用していた。下を走っている国道もかつての堀の跡であるという。 台地上には所々に土塁の残決のようなものが見られる。高さは2mほどである。
本城部分西側の堀切。『芳賀の文化財』の写真はこの位置から撮影したもののようだ。 本城内部。大きく削られている。西側には土塁があり、北西端に神社が祭られている。
 伝承によると、北古屋城は佐竹氏の出城であったという。とすると、宇都宮氏の勢力圏内に対する橋頭堡として築いたものということになろうか。しかし、これは伝承上のことで真実かどうかは不明である。

 また、西側の山には「リュウゲンレイ」と呼ばれる物見台があったとも言う。「リュウゲンレイ」は「竜害嶺」もしくは「竜害台」、すなわち要害嶺・要害台のなまったものであると考えられ、この城の出城があったところであると想像できるだろう。



木幡城(用貝城・茂木町木幡字用貝峯)

 木幡城は、芳賀富士の方から東に突き出した台地の先端部を利用したもので、宅地開発などが行われなかったせいか、城の遺構はほぼそっくり残されている。かつては一面笹薮だらけで、内部探索不可能であったとらしいが、最近、笹薮を刈り取ったということで、現在では城の主要な部分はきれいになっており、だいたいの遺構をちゃんと見ることができる。ただし、南北両側面の横堀の中央辺りはけっこうヤブになっていて、その辺りはきちんと確認していないので、この図と違っているところもあるかもしれない。方位磁石もなく歩測もしていないので、郭の形も実際とは違っている可能性が高い。大体のイメージ図である。

 中央部の最高所の1が主郭であろう。長軸50mほどの郭で、南側以外の3方向には高さ1.5mほどの土塁を巡らせている。虎口らしいところは東側にしか見られないが、何の工夫もない単なる坂虎口である。防御的にちょっともろい気がするので、本来の虎口はここではないのかもしれない。

 1郭は2の郭よりも3mほど高くなっている。1郭の西と北側には深さ3mほどの横堀があるが、南側にはない。東側は心もち窪んだ感じがある。こうしてみると、もともと横堀は全周していたのだが、畑の造成で南側は埋められてしまったのかもしれない。

 1郭の北側には2の部分があり、その先に8の堀がある。台地基部とを区画するためのもので、この城ではもっとも大きな堀である。この堀は横堀となって左右に分かれ、地勢にしたがって低くなっていく。

 1郭の東側には3の部分がある。3の郭の登り口には方10mほどの枡形状の緩やかな斜面があるが、これはきわめて不明瞭なもので、本当に枡形であったかどうか断定できない。

 3の郭の下には4の郭がある。4の郭の南側下には5の郭があり、ここから4の郭には城塁を斜めに上がるような坂虎口が付けられている。

 城の途上道は現在と大体同じものであったと思われるが、敵が登城道を通る際、どの地点を通過するにしても、城塁上から攻撃を仕掛けられるように配置されている。たとえば6の虎口を入った所にある東側の郭は、虎口防衛の際には武者溜りとなり、敵に侵入された際は、4の城塁から敵を劇激するための空間として利用できるのである。

 このように木幡城は、土塁や堀をふんだんにもちいた、戦国の戦闘的な城郭である。今回、雨の予報だったために、図面描きの道具を持参しなかったのであるが、時間があったらちゃんと描いてみたい、そんな気にさせるような城郭である。


公民館の背後の微高地の脇はすでに城塁のように見える。この辺りまで外郭部が存在したのであろうか。 6の虎口を下側から見た所。脇の城塁は高さ6mほどあり、かなり威圧的にそびえて見える。
6の虎口を入ってみると、右側の城塁は土塁であったことが分かる。4の郭との間は横堀になっている。ここから見る4の郭の城塁も高くそびえて堅固に見える。 4の郭の東側には7の土塁があるが、これによって横堀状の通路が形成されている。この土塁はかなり幅広なもので、上には墓碑などが置かれている。
台地基部との間を区画する8の堀。深さ3m、幅6mほど。 左の写真の横堀は東に傾斜しながら続いている。写真は10のさらに先の辺りから2の郭の城塁を見た所。高さ4mほど、幅は7mほどある。
右上の2の郭の城塁をよじ登ってみるとその先にも横堀があった。この方向で横堀は二重になっていたのである。堀の深さ3m、幅は5mほどである。 1郭内部。草刈がされたらしく、見晴らしがきくようになっていた。周囲には高さ1.5mほどの土塁が巡らされている。
 木幡城は、飯村内記によって築城されたといわれているが、それがいつの時代でどういう経緯であったのかは不明である。飯村氏といえば、東南3.5kmの所にある飯村城の城主である。飯村氏は益子氏に属していたといわれているから、茂木氏に対する益子氏の前線の要塞として築かれたもということになるであろうか。そういえば、木幡城の北東1kmの地点には高岡城がある。この城は、益子氏に対する境目の城であったと推測されているので、益子氏の木幡城と、茂木氏の高岡城が、それぞれ境目の城として対峙しあっていたという図式になる。というように考えてみると、木幡城は確かに高岡城のある北東方向を向いて築かれているように見える。



小屋台(こやんだい)城(茂木町河合字追越)

 小屋台城は、河井八幡宮の北側の斜面に広がっていると『芳賀の文化財』にある。確かに地図を見ると山中に八幡神社が掲載されている。この神社周辺が城址なのであろうと思って接近を試みた。しかし、どうも山道が付け替えられたらしく、峠には七曲隧道というトンネルが設置されていた。というわけで、八幡宮への参道を見つけられなかった。

 しかし、その後再訪してみて、八幡神社の入口をちゃんと発見することができた。前回は迷って違う場所を通っていたのであろうか。。城址は地元で小屋台と呼ばれている所であるという。

 山上には数段の削平地と帯曲輪などが残されているという。『芳賀の文化財』では「土塁などの遺構は見られない」と書いた後に「土塁も残在していて」とあり、土塁があるのかどうかよく分からない。しかし、古い「栃木県史」に「土堤ありて城郭の形式を存す」とあるというので、土塁状のものが確かに存在しているのであろう。

 河合八幡神社へはこの地点から分岐する道をのぼっていくことになる。細い道ではあるが、ちゃんと舗装されているので、普通に運転できる山道である。やがて山頂の神社真下の駐車場に到達する。

 ここから10mほど登ったところが神社である。神社境内は直径15mほどの円形の平場となっており、背後には削り残しの土塁状の地形が見られる。

 しかし、これだけである。特に城館らしい遺構は見られない。しかし、地形図を見ると、平場を伴っていそうな尾根が北側や西側に展開している。あるいは遺構はそちらの方にあるのかもしれないが、今回は未確認である。再訪する機会があれば確認してみたいと思う。

 河合八幡宮は、康平年間の後三年の役の際に、源義家が通過在陣して神社を祭ったのに始まるという。となると、一時的な陣城であったということであり、もともと、それほどきちんとした遺構を伴うものではなかったのであろう。

北側から小屋台城のある山稜を見たところ。春先なので山の斜面には山桜が何本も咲いているのが見えた。 河合八幡神社。周囲は急峻な地形であるが、この神社の真下まで車で来ることができるようになっている。駐車場もある。
 伝承では源義家が奥州征伐に出陣する際に築いたものであるという。もしそうだとすればきわめて古い城郭ということになるが、源義家がどういう経緯でここに山城を築いたのかはよく分からない。



九石(さざらし)館(九石陣屋・茂木町九石字古宿)

 那珂川の河畔に鎌倉山がそびえ、その下は観光用の簗場となっている。この鎌倉山の南西1.2kmほどの所に九石館がある。北側に突き出した比高20mほどの台地の縁部に築かれた城郭である。樹齢800年という大ケヤキのある所が入り口で、その奥の立派なお宅がある所が主郭であるようだ。しかし余りにも立派な門構えなので、訪問するのを躊躇してしまった。そのため周辺部しか見ていない。

 主郭は方50mほどで、北東側に土塁を置いている。ケヤキの所からこのお宅の方に進む左手下は窪地になっているが、これも堀の跡らしい。ケヤキのある部分は左右に平坦地が細長く延びて畑地などになっているが、ここが2郭ということになろう。規模は小さく、土豪の館といった趣の城館である。


 台地の西側には九石城があるが、この城と何らかの関係があったものであろう。









「大木の元」というバス停の脇に立つ樹齢800年というケヤキの古木。ここが城内への入り口になる。 主郭の脇にある土塁。高さ2m余りである。
 元禄年間、この地域は旗本・梶川与惣兵衛頼照の領地となり、彼はケヤキの奥の九石家を陣屋としていたという。梶川与惣兵衛といえば、赤穂浪士で有名な松の廊下事件で、吉良上野介に斬りつけた浅野内匠頭を取り押さえた人物ということでよく知られている。



九石城・九石城U(茂木町九石字古宿)

 九石城は、九石地区の台地の最西端にある。西側の台地下からの比高は30mほどもある。

 以前、ネットでの情報から九石館(陣屋)の方を九石城と思っていたのだが、そちらは『芳賀の文化財』の図や記事とは明らかに違っている。そこで九石城はどこか別にあったのではないかと思い、九石地区の台地を歩き回ってみた。そして、やっと本来の九石城を探し当てることができたというわけである。実際に訪れてみると『芳賀の文化財』の図はおおむね正確なものであったということが分かった。

 大けやきのあるところから西側に進み、さらに北側に曲がるとそこに「九石古宿遺跡」の案内板が立てられている。この台地は古くから高地性の集落が営まれていたところであったようで、土器や石器などが広範囲に散布されているという。また、平成2年の林道開削に伴う発掘調査では、完全な状態のままのミミズクエ土偶が発見されている。

 この遺跡の名称でも分かるように、この辺り一帯は「古宿」と呼ばれている。かつての九石城の城下町が営まれていたのであろう。

 古宿の畑地から見ると、奥の方に一段高い台地が見えている。これが城址である。畑の中の道をまっすぐに進んでいくとBの虎口に出る。ここが城の入口ということになる。現在は単純な段差しかないが、本来は堀などが廻らされていたのかもしれない。

 ここを通り抜けるとAの虎口のところに出る。1郭と2郭との間の窪地であり、細長い枡形のような形状である。ここを進入してくる敵は、左右両方の城塁の上からの攻撃にさらされるというわけである。Aから南側に出張った部分は、本来は馬出しであったものだろうか。

 これを進んで左側に回り込んだ所が1郭である。入口のすぐ脇に土塁に囲まれた区画があり、ここに祠が1基祭られている。この空間は虎口関連の仕掛けの名残りのようにも見えるが、実際には後世の改変なのかもしれない。この場所から西側にかけて、土塁が長く延びている。1郭は長軸70mほどの長方形の曲輪であり、けっこう広い空間である。

 1郭の周囲下には腰曲輪が造成されている。1郭からの比高差は場所によってずいぶん差があり、1郭北側では2mほどしかないが、西側に進むにつれて地勢は下っていき、西側から南側にかけては、高さ6mほどの切岸となっている。

 腰曲輪内部も、ただの平場となっているわけではなく、西端部分は竪堀によって分断され、そこから南に延びた部分は横堀状になっている。その先南西端には小枡形のようなくぼみがあって、さらに東側のAの部分に接続しているというように、ところどころに仕掛けが設置されている。

 腰曲輪南側の部分下には4,5といった郭が造成されているが、5はあまり手を入れられてはおらず、ほとんど自然地形のままである。

 さて、Aの枡形状空間を挟んで東側に向かい合っているのが2郭である。2郭は長軸40mほど。やはり周囲の下には腰曲輪が設けられている。北側が尾根続き3になっており、その間に浅い堀切が見られる。

 その先の3の部分は郭というよりは、ほぼ自然傾斜の尾根である。ちなみにこの部分は、実際には上の図の倍くらいの長さがあったのだが、長く描くだけの余白がなかったので、実際よりも短く描いてしまっているので注意していただきたい。さて、この3の尾根について自然地形と述べたが、周囲には帯曲輪が造成されており、一応城内として意識された空間であったことが分かる。内部の削平は行わないものの、周囲に一応の防御構造だけを配置したという趣である。ただし、先端下の帯曲輪は先端西側で竪堀となって分断されており、西側は帯曲輪ではなく、かなり複雑な自然傾斜の地形となっている。

 以上が九石城の概要である。1郭、2郭はそこそこの広さがあり、それなりの人数が篭城できるだけの規模はある。曲輪周囲の切岸もしっかりと造成されており、かなりの人員を動員して築かれた城郭であったと思われる。

 さて、この九石城と道路を挟んで北東に向かい合うような位置にもう1つの城跡がある。この城についての予備知識はまったくなかった。九石城を探して、周辺の台地を歩き回っているうちに偶然見つけたものである。あるいは九石城の出城であったのかもしれないが、出城にしては規模が大きすぎるので、単純に出城とすべきものでもないと思われる。そんなわけで、こちらは九石城Uとして紹介しておくことにする。

 1郭は長軸120ほどの広大な畑となっている。西側の脇下を道路が通っているがその下は急峻な台地土手となっている。東側は台地先端部で、こちらには何段もの郭が造成されている。したがって北側と南側だけが台地続きということになり、この両方向を分断すれば、かなりの要害地形である。そのため北側には横堀が掘られている。また南側は細い尾根1本で台地基部と接続している。かつてはここに堀切が存在していた可能性が高いと思う。

 1郭の北側には土壇状の部分と土塁があり、その間にAの虎口が造られている。これを出た先が土橋となっていて、その左右には堀が掘られている。横堀である。土橋の西側は竪堀となって台地下の方に接続している。東側は堀の外側に土塁を盛り、そのまま東側に長く延びている。堀底の幅が6mほどとかなり広く、中世城郭というよりは、近世城郭の堀のような印象がある。

 ちなみに、1郭北側の土壇の上には祠が祭られているが、なぜか破壊されてしまっており、基壇の一部しか残っていない。
 
 こちらの城のメインとなる郭は1郭だけであるが、かなり広いので、それなりの人員を収容することができそうである。また、腰曲輪が何段も造成されているので、それらも合わせると、そうとうな平場面積が確保できている。

 こちらの城の歴史についてはまったく不明であるが、上で述べているように、横堀の形状が近世城郭を思わせるようなものであることが気になる。元禄年間、旗本・梶川与惣兵衛頼照は、この地を拝領し、ケヤキの奥の九石家(九石館)を陣屋としていたというが、あるいは、この九石城Uとした部分こそが、近世の陣屋として造成された部分であったのかもしれないと想像してみたくなるのであるが、実際はどうだったのであろうか。



東側の古宿地区から見た九石城のある台地。2郭の城塁が見えている。 Aの虎口。縦に長い枡形状の内部を通っていくことになる。左側の上が1郭である。
1郭北側の土塁。高さは1.5mほどである。 1郭南側の城塁と腰曲輪。城塁の高さは6mほどもある。
西側に至ると城塁内部は横堀状になっていく。 2郭の城塁と、その下の腰曲輪。
3郭は自然地形の尾根であるが、その周囲には帯曲輪が廻らされている。 1郭と2郭との間から落ちる竪堀。
こちらは九石城の北東側にある九石城U。南側の城塁部分である。折れを伴っており、下には腰曲輪もある。 東側の城塁前面部には出枡形状の地形が見られる。
北側の虎口。藪で分かりにくいのだが、手前の土橋の左側は横堀となり、右側は竪堀となって、台地下に落ちている。 左手の横堀の先の部分。城塁下には腰曲輪がある。
 九石城の歴史は古く、須藤(千本)為隆が建久4年(1193)に築いたのに始まるという。為隆は那須与一宗隆のすぐ上の兄である。屋島の合戦で為隆は源義経に扇の的を射るように命じられたが、拒否したために義経に疎まれ、信濃に逼塞したという。しかし、後に宗隆のとりなしで下野に帰り、ここに居住したというのである。

 須藤氏は4年後には千本城を築いてそちらに移ったというから、九石城の在城期間はごく短いものであった。須藤氏は後に千本氏を称するようになった。その後も城は維持され続け、戦国時代には千本城の支城の1つになっていたという。九石城はそこそこの規模をもった城郭であり、千本城の有力な支城とするのにふさわしいものである。



城峰城(茂木町鮎田字城峰)

 城峰城は鮎田川をはさんで東小学校と向かい合う、比高70mの城峰に築かれている。山の南側下には県道51号線が通っており、この街道を監視するような位置にある。

 ちょうど城峰山の麓付近の道路に十分に車を停められるスペースがあったので、そこに車を置いて登ることにした。

 下の県道から見上げると、すぐ上にBのピークが見えている。道はなさそうであるが、ヤブのない斜面であるので、どこから取り付いても登ることはできる。見通しがよくて目標がちゃんと見えているのだが、ヤブが少ないというのは、必ずしもいいことばかりではない。斜面がけっこう急な上に落ち葉がたまっているために、直登するとけっこう滑ってしまうのである。ヤブが少ないということは、掴まるものもあまりないということでもあり、足元が滑るのに注意しなければならない。 

 東側の尾根の方の傾斜が比較的緩やかであったので、そちらに回り込むようにしてあがって行った。尾根まで出ることができれば、後はそんなに大変ではない。

 尾根を進んでいくと堀切が見えてきた。Aの堀切で、現状では深さは1mほどしかない。いや現状では、といっても、もともとこの程度のものであったのであろう。とはいえ明らかに堀切であり、両端はわずかながら竪堀状になっている。城域の境界を示すためのものであったのだと思われる。

 ここからまずはBのピークを目指す。下から見ると、Bが城のある場所のように見えるのだが、実際には城はそのさらに北側のピーク部分にあり、Bは途中経過の場所であるにすぎない。とはいえ、若干の平場があることや、Aの堀切から登っていくと、切岸と小郭のようなものが配置されているといったことから、物見程度のものが置かれていた可能性はある。

 Bから北側に尾根が続いており、その先にピークが見えている。こちらが正真正銘の城址である。尾根伝いに北側を目指していく。するとすぐに堀切が見えてきた。Aのものよりは明確なものであり、二段構造になっている。とはいっても、深さは2m程度であり、一般的に言ってそれほど大規模なものではない。この城の遺構はまあ、こんな程度のものである。

 そこから10ほどあがった所に、ピークを削平して1郭が造成されている。基本的にこの単郭だけの城といってよいだろう。1郭は長軸50mほどの楕円形に近い形状の郭である。

 周囲を切岸形成したために、周辺には帯曲輪が造成されている。後で図面を見てみて気が付いたのだが、この帯曲輪、渦巻き状に形成されているようである(図面を描くときに接続を間違えてしまった可能性が高いが)。また、その一段下にも、尾根のある各方向に腰曲輪と切岸が形成されている。単純ではあるが、セオリー通りの構造である。

 これですべてである。大規模な遺構は存在していないが、コンパクトにまとまった山城である。下の以前の記述でも書いている通り、南北朝時代の城であったということであるから、さほど技巧的でないのも仕方のないところであろう。古いタイプの山城というべきものである。

南側の道路から見た城峰城。山麓からの比高は70mほどである、 南側の県道51号からBのピークを見た所。ヤブが少ないのはいいが、傾斜が急で落ち葉も多いので、けっこう滑ってしまう。ヤブが少ないと、掴まるところもないのである。
東側の緩やかな尾根を登っていくと最初に見えてくるAの堀切。城域を示すための小規模なものである。 1郭手前にある二段の堀切だが、写真だとよく分かりにくい。
東側の尾根続きの部分に造成された腰曲輪と東側の尾根。 1郭周囲の腰曲輪からみた1郭城塁。
(以前の記述)鮎田にある東小学校の前の道を南西に進んでいくと写真の山が見えてくる。城山がどれかも分からずに迷ったのであるが、地元の方に伺ったところ、「城峰といったら、この山のことだと思う。堀ノ内の上の山だ」というような話を聞くことができた。しかしどうも違う山のような気がしてならない。詳細はまた後日である。

 『芳賀の文化財』の説明では、比高70mほどの山頂には8aの平坦地があり、その下には腰曲輪が取り巻いている。尾根筋には二重の堀切がうがたれているという。

 地元の人に城峰城のことを伺ったが、「城があるなんていう話は知らない」と言われてしまった。しかし、城峰というのはこの正面の山であるらしいということを教えていただいた。この麓は「堀ノ内」という地名であるという。

 城峰城は延文元年(1359)、結城氏と戦って廃城となったという伝承を持っている。その頃結城氏がこの地域まで攻め込んでくるような状況であったかどうか、よく調べていないので何ともいえないが、ちょっと意外な気がする。




坂井(さかのい)御城(茂木町坂井字古屋)

 坂井御城は比高40mほどの坂井の古屋地区にあったという。 しかし地元で聞いた際には「確かに古屋という地名はあるが、城があったという話は聞いたことがない」と言われてしまった。

 そこで『芳賀の文化財』の「星宮神社がある古屋に所在する」という記事を頼りに、星宮神社を捜してみることにした。国道123号線の北西側一帯が「古屋」なのであるが、台地上に注意していると、中腹に鳥居があるのが見える(これは以前の記述で、現在では鳥居は見当たらない)。これが星宮神社である。登り道はいくつかあるようだが、神社を目指して適当に登ってみた。

 まずは鳥居を目指す。鳥居こそ立派なのだが、道がひどく荒れていて草ぼうぼうである。何年も誰もお参りしていないような状態といっていい。それでも高さ20mほどの、けっこうきつい石段を上がってみると、神社の場所に出た。そして、そこまで来てやっと、なぜこのように参道が荒れてしまっているのかが分かった。

 神社はなくなってしまっていたのである。しかしよく見れば、脇に建物の残骸の木材が積まれている。これがかつての社殿であったのであろう。社殿の跡地には碑が建てられている。そこには「此処に星宮神社ありき」という、ちょっと切なくなるような文言が書かれていた。碑文によると、「平成12年11月吉日、近津神社と合併す」とある。合併によってなくなってしまったということらしい。しかし近津神社がどこにあるのかは知らない。

 神社の跡はきちんとした削平地で、長軸30mほどある。その下には通路として使用されていた帯曲輪のような空間がある。また神社の上の2mほど高いところにはもう1つの削平地もある。しかし、これらは神社の跡地に過ぎず、実際の城址はそこから西側に降っていった先の、台地の北西先端部に残されている。

 城は40m×80mほどの長方形の単郭のものである。周囲は3mほどの切岸で囲まれている。下には腰曲輪があるが、西側は、外側に土塁をめぐらせて横堀形状を成している。

 1郭の南側の部分が緩やかな傾斜地形になってしまっているのだが、後世の改変で城塁を崩してしまったものだろう。その東側の台地寄りにも微妙な段差が見られる。ただし堀切などの明確な区画は見られない。セオリーからすると堀切があってしかるべき箇所だが、この辺も後世の改変部分なのではないかと思われる。
 
 西側の横堀下には帯曲輪状のものが2段ほどあるが、現在、切った竹が逆茂木状に配置されており、人を寄せ付けないような構造になってしまっている。意図的ではないにせよ、現状では西側から登るのは非常に困難である。

 坂井御城は構造こそ単純なものだが、1郭周囲の城塁や横堀などはしっかりと普請されている。ある程度のまとまった人数の篭城を意識した城郭である。

星宮神社跡への登り道はいくつかあるようだが、この道から登っていった。四駆の車なら神社真下の墓地まで上がっていくこともできそうだ。 星宮神社の残骸。こうなってしまうと見ていて痛々しい。
1郭西側の城塁。高さは3mほどだが、しっかりとした切岸構造になっている。 1郭城塁と横堀外側の土塁。堀内部は幅広くなっている。
1郭東側下の腰曲輪。途中に井戸状の窪みがある。
 城の歴史等詳しいことは不明である。しかし、城のある所は国道沿いで、千本城と茂木城との中間地点くらいの位置である。おそらく、千本城、茂木城、いずれかの境目の城としての機能と、街道を押さえる目的とを有していた城だったのではないだろうか。




高岡城(茂木町北高岡字寺ノ内)

*鳥瞰図の作成に際しては『芳賀の文化財』および北緯36度付近の中世城郭を参考にした。 

 高岡城は北高岡の田ノ神神社のある台地から南側にかけて展開する広大な城である。茂木町の城館としては茂木城に次ぐ規模の城であるといっていい。比高は20mほどで、それほど高い位置にはない。

 城の中枢部は、台地の南側部分に当たるが、北側の広大な台地も地続きになっており、腰曲輪状の地形も存在していて、北側の部分も城の外郭部であった可能性がある。また、この台地の北西端にある田ノ神神社には城郭遺構のようなものがみられ、現在神社のある場所は、出城的要素の強い場所であったと思われる。

 城に訪れるには、この田ノ神神社から台地続きに南側の城内に接近するのが楽である。これなら比高差はほとんどない上に、山麓のヤブのひどい箇所を通らずに城内に入り込むことが可能である。とはいっても、途中の道は一部笹薮化しているが、そこさえ通り抜けてしまえば、その先は普通に歩ける山林となっている。城内の入り口(図の5郭の入り口部分)はこの辺りである。

 1郭内部はかって耕作地であったようだが、現在は放棄されており、一面のヤブ状態である。それも、まともに歩けるような状態ではない。ということで、1郭の大半は歩けていないので、図化していない。そのうち歩くことができたら、木で隠している部分を描いてみたいと思う。長軸100m以上もある広大な郭であり、かつて内部に堀や段差があったものと思われるが、耕作化によって失われている部分もあるのではないかと思われる。

 1郭の周囲は高さ3mほどの切岸が巡らされ、その下に横堀が巡らされている。横堀の多用はこの城の特徴の1つである。1郭から南に派生する尾根には3の郭があり、その先端にはやはり横堀が入れられている。通常の城ならば、単純に掘り切るだけですましてしまいそうなものであるが、横堀を配置することで、敵を殲滅するための戦闘空間を想定しているのである。

 3の郭の先端の部分も郭のようになっているが、周辺は明確な切岸加工を施されておらず、自然地形に近い状態になっている。捨て曲輪のようなものであったのだろうか。

 3の郭の北側には虎口が造られている。こちらは下の腰曲輪を経由して上がってくるルートの入り口に当たる部分であったかと思われる。この西側斜面はやや撹乱されているようで、導入路が分かりにくくなってしまっているようだ。その下には重機で撹乱されたようなものもあるので、近代の破壊によって形状を掌握しにくくなっているのかもしれない。

 1郭と同じ高さで、東南側に2郭が延びている。この2郭の周囲にもやはり横堀が巡らされている。また、南側の4郭との間には、虎口が設けられ、土橋によって接続している。大規模ではないが、導入路が明確な虎口である。虎口の東脇の堀は深くなり、一部横堀状となりながら、腰曲輪となって東側に回り込んでいっている。この腰曲輪は1郭まで延びているのではないかと想定されるが、確認してはいない。

 4郭の先にも土塁があり、虎口が形成されている。4郭の城塁を斜めに登っていく坂虎口である。その先にも平場が続いているようだが、ヤブがひどくて、とても入り込む気分にはなれない。

 1郭の西側下には5の郭がある。これまたそうとう広大な郭であるが、半分はヤブ化していて、形状は把握しにくい。この郭は南側にしっかりと土塁が形成されているのが印象的である。土塁は削り残しによって造られたもののようで、先端の地勢が低くなっている関係上、先端にいくほど高くなっており、先端近くでは3m以上の高さを誇っている。不思議なのは、城内の中枢部であるはずの南側にだけ土塁が形成されているということである。単に地形上の問題でこのようになってしまったのかもしれないが、あるいは南側の方向に防御ラインを引きたくなるような何かがあったのかもしれない。

 高岡城は、広大な台地に展開しているだけあって、かなり大規模な城である。伝承では「茂木氏の隠居城」であったというが、それだけのためにこれほどの城を築くことはないであろう。下の以前の記述でも述べているように、益子氏との境界を接する境目の城として、軍勢の駐屯を意識して築かれた城であると思う。もし、ここに、茂木氏の先代が入城し、自ら益子氏に対抗しようとしていたとするなら、そうして先代が入城した事実をもって、隠居城という伝承が生じてしまったというべきであるのかもしれない。

1郭内部。ヤブがひどくて探索できなかった。 1郭南側の横堀。
3郭の横堀。 同じく3郭の横堀。東南の角辺り。
2郭の横堀。 2郭の虎口と土橋。
4郭の虎口。この辺りから笹薮がひどくなる。 5郭の土塁。削り残しによるものだが、高さ3m以上と、けっこうな高さがある。
(以前の記述)県道206号線の北高岡付近に田神神社の鎮座する山がある。ここから南東に広がる一帯が高岡城であるという。田神神社のある所は比高15mほどの台地先端部で、土手は城塁のように見える。また、参道脇に横堀の名残のようなものも残っている。「芳賀の文化財」の図を見ると、この神社のある所が二の曲輪なのかと思う。とすると、東側に広がっている畑の奥辺りが一の曲輪で、その南側に3の曲輪があるのかと思われる。しかし、違う気もする。一の曲輪と思われる部分がヤブがひどくて近づきようもなかったので、その辺りをきちんと確認できていないのである。とはいえ、田神神社のある所はなんとなく城らしい地形であるといえる。台地上はけっこう広大で、これらすべてが城域であるとすると、兵站地点として意識された有力な城郭であったといえるかもしれない。

 この城は寺ノ内と呼ばれる所にあるが、北高岡には他に城ノ内という所もあるらしい。ということから考えると、この城の出城のようなものが周辺部に存在していた可能性もある。

  高岡城は伝承では茂木氏の隠居城であるという。この辺りは益子氏との勢力が接する地点であり、ただの隠居城というよりは、境目の城としての機能をも有していた城郭であったと思われる。東南の木幡城と対峙しあっていたのであろう。



高岡出城(茂木町北高岡)

 高岡の田ノ神神社は、高岡城のある台地の北西端にあり、その周囲は切岸によって囲まれている。西側の斜面には切岸加工を施した際に生じたと思われる帯曲輪があり、南端部分には、わずかだが横堀と竪堀とが組み合わされた遺構を見ることができる。また、東南側の神社入口も虎口状になっている。

 このように城郭遺構と思わせるものがいくつもあることから、高岡城の北西側を監視するための、一種の出城であったものと思われる。
 

















県道206号線から、東側の城山を見た所。比高20mほどで、よく見ると左下の方に田神神社の鳥居が小さく見える。 台地上は一面の畑地である。正面奥の高台が中心部のようだが、ヤブがひどくて内部に入れない。
 田神神社の周囲には城らしい土手が巡っている。 田神神社の参道脇には、横堀の残欠らしいものがある。
 高岡城は伝承では茂木氏の隠居城であるという。この辺りは益子氏との勢力が接する地点であり、ただの隠居城というよりは、境目の城としての機能をも有していた城郭であったと思われる。東南の木幡城と対峙しあっていたのであろう。



茂木藩陣屋(茂木町茂木字馬場)

 茂木藩陣屋は、町民センターの周辺にあったという。逆川を中央に取り込み、22軒の侍屋敷や藩校弘道館などを配置したというが、現在では遺構らしきものはまったく見られない。

 慶長15年(1610)、熊本藩主細川忠興の弟の興元は、関が原合戦、丹波福知山城攻略で武名を上げたことにより、茂木25ヶ村1万石余りを拝領して、当地に入部してきた。彼は山城であった茂木城は使用せずに、山麓に陣屋を置いた。それが茂木陣屋である。興元はさらに大阪夏の陣でも軍功を上げ、6千石ほどの加増を受けている。

 元和5年(1619)、細川氏は江戸に近い矢田部に居を移したが、その後も茂木領支配のために陣屋は維持され続けた。



若宮城(茂木町増井字古館)

 県道291号線が国道123号線に突き当たる「林入り口」の信号があるが、この時、正面に見える比高20mほどの台地が若宮城の跡である。台地はかなり広大なもので、宅地化や耕地整理も進んでいるので、どの辺りが城の中心部であるのかよく分からない。

 台地の先端部が「堀ノ内」、一段高くなった奥の辺りが「古館」という地名であるらしい。この地名から想像すると、もともと台地奥部に古館があったが、のちに城域が拡大され、台地先端部まで取り込まれていった、というように想像することもできるが、開発されてしまった現在では確認しようもない。
 1947年の航空写真を見てみたが、やはり城の形状を把握することはできなかった。

 このように現在では明確な遺構もほぼ見られないようであるが、かつては、城に関係したと考えられる石の山積みなどが見られたという。また、北側の数段の畑が腰曲輪の跡であるともいう。

 現地の方に伺ってみると「確かに昔、城があったという話はあるが、詳しいことは分からない。塚が1つあったが、畑にするんで崩してしまった」とのことであった。

 最上部の古館は、かなり広大な場所で、上がってみるとそこはゴルフ練習場のようになっていた。その他の部分も、だいぶ以前に耕地整理されているようで、ただただ一面の平坦部となっているばかりである。

 その東側下の土手は2段ほどの切岸状になっており、あるいはこれが城塁と腰曲輪の名残であるようにも思われる。










 

北側から若宮城のあった堀ノ内の台地を見た所。比高20mほどで、台地上はかなり広い。 台地上のさらに高くなっている所。この辺りが古館という地名らしい。
 伝承では若宮某という者の居館であったということであるが、これがどのような人物であったのか詳しいことは不明である。おそらくは茂木氏の家臣かその一族であったのではないだろうか。「若宮」という地名そのものが茂木氏との関係を示しているとも言われるが、「若宮」と「茂木」にどのような関係があるのかも、残念ながら知らない。




金剛寺薬師堂跡(茂木町町田字本郷)

 城ではないが、きわめて城郭的雰囲気を残す場所として、町田の金剛地薬師堂跡を参考までに紹介しておく。場所は九石城の北500mほどの所にある比高20mほどの台地先端部である。台地は北側に突き出したもので、先端近くには何本もの桜の木が植えられているので、花が咲いている時期には、北側の道路から見ると非常に目だって見える台地である。また、この下には案内板も立てられているので、何か由来のある場所らしいということは遠目にも分かるようになっている。

 薬師堂跡は長軸30mほどの狭い空間であるが、南西側には削り残しの土塁があり、周囲は急峻な土手となっている。その下の水田はかつての沼沢地の名残であろう。かなりの要害地形である。また、薬師堂跡に続く道は途中切通しとなり、横堀状通路とでも言うべきものである。

 金剛寺は、孝謙天皇に寵愛された道鏡にゆかりのある寺院であるという。町田に伝わる伝承によると「道鏡は最初猿丸太夫といわれ、神勅によって伊豆に左遷されたが、後に道鏡と改名、都に戻った。しかし、再び下野に左遷されることになった」ということで、その際、町田の金剛寺に6年間滞在したのだという。

 道鏡はこの地で、孝謙天皇の勅使が自分を都に連れ戻しに来てくれるのを待ち続けたという。その時に詠んだ歌が

 「遠近の立ち木も知らぬ山中に覚束なくも呼ぶ小鳥かな」(自分を呼んでくれるのは小鳥ばかりで肝心の使者は呼びに来てくれない)といったものだったという。

 この地は本来「渕田」という地名であったが、この後「待田」と呼ばれるようになったという。さらに後世、当地の領主であった須藤十郎為隆(九石城主)が、「町田」と改めたという。

 その後も金剛寺は地元の信仰を集めていたが、昭和27年に薬師堂が焼失してしまい、現在はその代わりの小祠が建っているだけとなっている。









北側から見た金剛寺薬師堂のあった台地先端部。水田からの比高は20mほど。上の方には桜が何本も植えられている。 薬師堂跡。背後には削り残しの土塁がある。




河又城(茂木町河又)

*鳥瞰図の作成に際しては栃木県の中世城郭を参考にした。

 上記のホームページから、茂木町にこれまで知られていなかった城郭跡があるという情報を得て、訪れてみることにしたというわけだ。場所は金蔵寺の西側にそびえて見える比高70mほどの山稜上である。

 2013年1月19日、この地を訪れたのだが、先週関東一円に降り積もった雪が、こちらではまだ残っており、ここに来るまでの道路は途中何箇所も凍結していた。ノーマルタイヤで来てしまった私は冷や汗タラタラである。やはり千葉とは違う。栃木の冬をなめたらいけません。

 道路脇に空き地があるので車はそこに停めておくことができる。そこからお堂に上がる石段が見えているので、とりあえず、そこを上がってみる。

 すると畑越しに城のある山が正面に見えている。道があるのかどうか分からなかったので、そのまま先端部に取り付いて直登してみた。先端方向はわりと尾根が緩やかなので、直登といっても、さほど厳しくはないのである。

 だが、ちゃんと道も付いていた。そのルートについては城山を降りる際に気が付いたのだが、山麓から城の北端部にある堀切のところに出る山道がちゃんと付けられている。この道はさらに奥の山の神社まで続いているものらしい。

 城は非常に狭隘なものである。主郭とも言うべき山頂部は、文字通り尾根だけのスペースしかなく、削平もきちんとされておらず、幅は5mほどのものである。これでは居住できるようなスペースがあるとは言いがたい。

 しかし、この尾根部分を中心として、北側と南側の斜面には、切岸形勢によって生じたテラス状の小郭が数段ずつ展開している。小規模ではあるが、城郭とみてよさそうである。残雪で滑っていたが、これらを登り降りして確認していく。こうした部分はとても城郭らしい雰囲気のものといってよい。

 とはいえ、上記の通り、城内にはとても狭い空間しか存在しておらず、多くの兵が駐屯したり籠城したりできるような施設であるとはとうてい言えない。物見・狼煙台程度の砦、といったものであったというべきものである。

 上記の参道を通って降りてくるときにちょっと気になったのが、図にも描いてある、山麓の2段の平場である。もちろん、これは一般的には畑造成で生じたものと見るべきものであるが、周囲が切岸状の土手が廻らされており、入口がやや虎口状になっている。居館を営むのにはよさそうな場所なのである。

 こちらの部分が居館であったとしたら、山上の部分は、詰の城、あるいは背後の防塁といった性質のものであったと言えるだろう。いずれにせよ山上は城の主体を示すものではないような気がする。


 河又城の歴史等は未詳である。河又には、常陸と那須地域を結ぶ街道の1つが通っているので、佐竹軍の侵攻に備えて監視所として築かれた城であるという想定が可能である。

 この地域からは常陸の小舟地域が近い。小舟城が戦国期佐竹氏の軍事拠点の1つであったことは「佐竹義篤書状」かあきらかで、この地域はその影響を受けやすい地域でもある。

 逆に佐竹方が、この地域の監視のために築いた城であったという解釈もできなくはない。地元民が避難する城としては、狭隘に過ぎるから、いずれにせよ純粋に軍事的側面からその性質を解釈しても良いのではないかと思う。といっても軍事的駐屯拠点といった規模ものではなく、あくまでも監視所といったレベルのものである。



東側の金蔵院前から遠望した河又城。ここからの比高は70mほどである。 お堂の登り口。この上から進んで直登しても行けるが、奥に進んだ部分に参道も付けられている。
北側の腰曲輪。きちんと切岸加工されている。 1郭内部。ただの尾根であり、居住性は乏しい。
尾根部のところにある、城域区画を示す堀切。深さは現状では1m程度しかない。申し訳程度のものである。 西側山麓にある二段の平場。あるいは居館跡であろうか。





























大竹屋旅館

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