箕輪城(群馬県箕郷町)

 箕輪城を東南上空から鳥瞰して見た。A4一枚で描いたのでだいぶごちゃごちゃしてしまったが、城域は広大である。それにもまして、この城の最大の特徴は、堀切の広大さ、これに尽きる。本丸や二の丸の大きい所では、深さ14,5m、幅は40mにも及ぶ所もある。まるで近世城郭並みである。中世城郭でこれほどの規模の堀を持っているものを見たことがない。しかもそれが縦横複雑に配置されているのである。おそらく群馬で(あるいは関東の中世城郭で)一押しの城と言ってよいだろう。

 城の中心となるのは、御前郭、本丸、二の丸、と連郭式につながった部分である。おそらく古い時代の箕輪城はこの辺りを城砦化しただけものだったのであろう。先端の御前郭がもともとは本丸だったのかもしれない。しかし、戦国の争乱期になって、徐々に城は拡大されていったものと思われる。本丸と二の丸の間、二の丸と木俣との間にはそれぞれ馬出しのような郭があり、郭間の連繋が厳重になっているのは、戦国も後期の造作ではないだろうか。

 気になるのは、これだけ厳重な構造に築成された城であるにもかかわらず、東側の搦手方面からの防備が弱そうに見えることである。搦め手口の辺りは台地基部との続きになっており、西方や南方が山下からの比高40mに及ぶのに対し、東方と北方は比高20m未満である。搦手口からは直接本丸の城塁を望むこともできる。想像するに、この東側の、現在畑地や宅地になっているところは、もともとは沼地だったのではないだろうか。東南下には椿名沼という沼がかつてあったといい、その続きが東の搦手辺りまで及んでいて、天然の要害になっていたのだと考えてみる。そうすれば、この方面に人工の構造物を多く配する必要もないであろうし、沼の間を通る細道が搦手というのもロケーション的に合ってくるであろう。

 03.8.9 この日、ヤブレンジャーのメンバーと共にこの城を訪れた。(ヤブレンジャーの詳細は丸岩城のページをどうぞ) 折から台風10号が到来し、雨が降りしきる。この台風はゆっくりと日本列島を縦断し、九州から北海道までかなりの被害をもたらしていた。それが群馬北方を移動しているさなかに箕輪城を探索することになった。どの郭に行っても雨、雨、風、そしてまた雨。有名な城郭で休日であるのにもかかわらず、他に箕輪城を探索している者は人っ子一人いない。雨には慣れているとはいえ、なかなかしんどい。

 そして、この城や暮れ方の鷹留城などを歩いて川原湯温泉の宿に着くと、そこには「歓迎 チバラギ薮の会様」の文字が・・・・・。(これについては埋もれた古城丸岩城のページをどうぞ) 「薮の会って、なんじゃこりゃー! 誰がこんな名前つけたんだよ〜」と思ったのであるが、ふと自分の格好を見ると、泥だらけの黄色い長靴、汗まみれのTシャツ、そして蜘蛛の巣の張り付いた頭・・・・・・これではいかにも薮の会そのまんまの姿であった。さらにいうならば「薮と嵐の会」といってもよさそうだ・・・・・・。

 西側下の虎稲門の辺りから登り始めてみた。するとすぐに鍛冶曲輪の虎口石垣が見えてくる(あ)。こうした遺構は井伊氏の時代のものであろうか。

















 大堀切。この写真ではよく分からないが、すごく深い。最も深いところでは20mほどはありそうだ。幅も最も広いところでは40mほどある。あまり深いので、自然地形を利用しているのではないかと思えるのであるが、実際の所、深い堀はあっちこっちにある。となると、やはり上から掘り下げていったものか・・・・。こうした堀を掘るのにどれだけの労力が必要だったことであろう。想像するだに気が遠くなってしまいそうだ。

 ひとつ疑問なのは、これらの堀を掘った際に出た土はどこに持っていったものであろうかということ。城内には本丸を除けば、特に土塁は見られないので、土塁にしたということはあまりなさそうだ。これだけ掘り下げれば、山一つ作るくらいの土が出てくるはずであるのだが・・・・。城内の高所の一部は、もしかすると盛り土によってできているのかもしれない。
 









 三の丸の石垣。(い)の部分である。これも井伊氏の時代のものであろうか。大きい石で積んだ部分と小さい石で積んだ部分とがはっきり分かれていた。やはり大きな石材はこの辺りでは、たくさん仕入れることが困難だったのであろう。














 本丸の城塁を三の丸から見る。深い・・・・・一見、自然地形にしか見えないほどだ。しかし、横矢も掛かっており、こんな形態の自然地形もないであろう。それにしても、掘った後の土の行方が気になる。















 二の丸虎口が発掘されていた。表面上は何も見えない所でも、掘ってみるとこのような石畳や石垣が埋もれていたりするのである。通路には石畳が敷かれ、両脇には虎口の門の土台と見られる石組み、さらに通路脇には側溝も造られている。こういうものが土の中に埋もれているとは・・・・・・・。掘ってみないと分からんものだ。















 郭馬出でも発掘が行われているようだ。これはどうやら六つ足門の礎石であるらしい。脇に水路もきちんと造られている。ただ、この位置が門だとすると、位置がちょっと半端な気がしてしまう。現在ついている道は往時のものではないのかもしれない。

 それにしても「郭馬出し」とは何であろう。「角馬出し」の誤植ではないのだろうか。「城郭体系」の山崎氏は「郭」の字を当てはめることを好んだのであろうか。
















 本丸の土橋から横矢の掛かった西側を見る。ここの堀も深い。深さ13,4m、幅は土橋部分で42mもあった。この土橋の東側には馬出し的な部分(う)がある。この馬出しは、本丸との接続の用途の他に、搦手口から来る敵を見張り、攻撃するという機能をも持っている。
















 本丸虎口の土塁下の石垣。遺構ではないかもしれないが、土塁の根石として崩落防止のために置かれている。















 本丸の土塁。郭内側からの高さ1,6mほど。東側にはこのように土塁がきちんと造られているが、西側にはほとんどない。こちら側からの防備を重要視していたということであろうか。

 本丸と御前郭との間には堀(え)がある。この堀は御前郭側の方が切岸状の急斜面になっている。こういうことから、御前郭が詰めの丸的な郭であることが分かる。この御前郭には、櫓台や井戸などもある。この井戸の中からは墓石がたくさん出土しているということである。














 御前郭から下に降りて、北側の丸馬出しに行く。これは丸馬出しの堀部分。深さは1mほどで、防御性は薄い。畑地の造成で埋められてしまったものか。「丸馬出し」と案内の標柱が建っているが、本当に丸馬出しなのか、いまひとつ分かりにくい。

 北側も台地続きのため、防御的に弱い感じがする。堀(お)などもあるが、この堀は現状で深さ2m、幅6mほどの程度のものであり、これが外郭線ではちょっと心もとない。















 新郭の方から稲荷郭の城塁を見る。きちんと造形されているのがよく分かるが、草がぼうぼうでこちら側からは近寄れない。下の堀は水堀であったと思われる。















 今度は稲荷曲輪の方から新郭を見てみた。下にいる敵を威圧し攻撃するのはたやすいであろう。

 稲荷曲輪の北西端には4mほど高い壇があり、ここに稲荷社がある。往時は物見の櫓などがあったものであろう。

 さて、城の主な部分は、図の「木俣」のところでひとまず終わる。木俣とは変わった名前だが、堀が「木」の字のように5つに分かれているところがあるので木俣というのだという。ただし、現状で堀が5股になっているところはない。

 この木俣から先の南側(こちらが大手口となっている)は、郭が段々と連なって台地下に降りて行っている。

 南側の一段高いテラスに、現在法峯寺が建っている。















 法峯寺の脇には水の手曲輪がある。水の手曲輪には現在も湧水点があり、水が滾々と湧いている。そこが今では蛍の養殖場となっているのである。蛍というと、ほのかで切ないイメージがあるが、水中のタニシのような貝をボリボリと貪り食うのであるという。驚きだ。
















 大手口。脇に土塁で小規模な枡形のようなものがあるが、これも遺構であろうか。

この部分の西側奥の住宅地内には「丸戸張」というのものあったらしい。これは何か丸馬出しに近いようなものだったのであろうか。「特定非営利活動法人 箕輪城元気会」の建てた看板などがそこにあった。(写真のものはそれではない)













 さて、箕輪城は長野氏の城として有名である。長野氏は関東管領上杉氏に属していたが、永正年間頃、長野業尚によって箕輪城は築かれたという。戦国期になると、有名な長野業政が現れる。度重なる北条や武田の圧迫にも業政は屈することなく節を持していた。天文20年、上杉憲政が越後に走った後も、彼は上州勢をたばねていた。しかし、彼の死後、武田の攻勢はますます激しくなり、永禄9年、ついに武田軍の攻撃によって箕輪城は落城した。以後、信玄は内藤昌豊を城将として入れた。

 天正10年、武田氏が滅亡すると、上州には滝川一益が来たが、半年後には本能寺の変で信長が死に、滝川氏は敗れて、結局箕輪城は北条氏の城となった。

 天正18年、小田原の役の際、箕輪城はろくに戦うこともなく開城、戦後は徳川家の家臣、井伊直政が12万石で入城。彼によって大きく城は改造されたであろうから、現在見られる遺構の多くはこの時代のものであると思われる。しかし、商工業の発展のためにはこの地はふさわしくなかったのであろう。井伊氏はやがて高崎城を築いてそちらに移っていった(慶長3年)ので、箕輪城は廃城となった。中世城郭としては堅固な城でも、近世には時代遅れの城だったのであろうか。























大竹屋旅館

Ads by TOK2