壬生町

*参考サイト 日本を歩きつくそう  兵どもの夢

羽生田城(壬生町羽生田)

 羽生田城は、羽生田小学校を中心とした一帯にあった。この小学校のある所が本丸、二の丸であるが、小学校の建設に伴って中心部の遺構はだいぶ失われてしまったようだ。

 鳥瞰図は南側上空から見たものである。城は南側が崖となった比高12mほどの台地上にある。また、この台地の西側を思川が流れている。城の南側と東側は低湿地なので、三方が天然の要害であった。であるので残る北側が弱点となる。それゆえに北に向かって何重もの堀を巡らせて防御を固めるという構造を用いている。

 本丸、二の丸、八坂屋敷の部分は羽生田小学校の敷地となってすでに遺構が失われている。ただし、二の丸と3の丸との間の堀は微妙な段差となって残っている。

 一番見ごたえがあるのが、三の丸の北側の堀である。深さ10m、幅12mほどで、かなり急峻であり、ここを降るのはちょっと大変だった。またこの部分の土塁も実にしっかりと築かれている。この三の丸の堀は西側まで続いているが、もう1本西側にもさらに堀が残っている。これらの堀を水堀のように描いてしまったが、実際は空堀であったかもしれない。ただし、一番西側の堀はかなり水堀らしい痕跡を残している。この部分は郭内から、土塁、水堀、土塁、堀切という二重構造になっていたのかもしれない。

 三の丸の北側には歓喜院があるが、こことの間の堀は現在は切通しの道路となっている。歓喜院の北側には腰曲輪、さらに一段低くなって伸びている部分があるのだが、これは大手構造に由来するものなのかもしれない。歓喜院の西側は広大な畑地となっている。遺構はこの部分で途切れているが、これらは耕地整理のために失われてしまったものと思う。





 南側から小学校を見た所。「城址にはばたくはにしの子」という大きなキャッチフレーズがいやでも目に付く。これならここに通う子供たちも、ここが城址だということをいやでも意識せざるを得まい。ただし、この小学校のために、城の中心部分の遺構は失われてしまっている。


















 八坂神社の西側の二の丸堀跡付近に建つ標柱。この先に三の丸の土塁と堀がある。この先辺りからみる堀が一番深く、険しく見える。しかもかなりの薮である。


















 三の丸堀の脇に建つ八坂神社のある土壇は、三の丸の虎口を固めるための見張り台のようなものがおかれていたところであったろう。


















 三の丸の堀。ここまで、降りて来るのが大変だ。深さも深いが、それにもまして途中の薮が・・・・。

















 こちらも三の丸の堀の続きであるが、東側半分は台地下に降りる切通しの道となっている。



















 (い)の辺りにある、堀(?)な遺構。実際は堀ではなく腰曲輪であるのかもしれない。この上にも腰曲輪があり、その上が歓喜院となっている。


















 (う)の辺りの堀。左側が郭内である。この堀の右側に土塁があり、その先は切通しの道となっている。ということからすると、この部分の構造は、郭外から見ると、堀切、土塁、この堀、そして土塁というような二重構造であったかもしれない。

 この堀は底がかなり湿っていて、水堀であった可能性を示している。















 羽生田城は壬生氏の重要な支城の1つであった。戦国時代に壬生氏はこの地域に板橋、藤井、羽生田という3つの支城を持っていたという。戦国末期には羽生田城主として藤倉勘斎というものが居城としていた。しかし、天正18年、小田原の役に伴って壬生氏は改易となり、その際に羽生田城も廃城となったのであろう。





藤井城(壬生町藤井)

 藤井城は藤井小学校の北側にある円照寺の敷地となっている。この寺院の北側から北西にかけて土塁と堀が残っているが、これが遺構である。南の、小学校のある辺りも城址の一部であったらしいが、こちらにはこれといったものはないらしい。

 写真は北側の高さ1,5mほどの土塁が横矢状に折れている部分である。この脇に虎口があったのかもしれない。この下には堀があり、その先は水田地帯が広がっている。

















 上の土塁の下側にある堀の跡。だいぶ埋まっていて、深さ2、5m、幅4mほどでしかない。戦国期の城の堀としてはかなり小規模な部類になるであろう。





 藤井城は13世紀に小山氏の一族、藤井時朝によって築かれたという。その後城は壬生氏の手に移り、戦国期には壬生氏の家臣大垣宇右衛門兵衛が城主として在城していたという。壬生氏の3支城の1つであるが、羽生田城と比べると、中世前期の居館の面影を残し、規模もかなり小さかったようである。









壬生城(壬生町本丸) 

 壬生城は壬生町の中心部にあった。城址の辺りには城址公園、中央公民館、歴史民族資料館などが建ち並んでおり、場所は比較的分かりやすい。

 現在、遺構としては本丸の南側の堀とその周辺の土塁が残っているだけであるが、壬生城の古絵図が存在しており、これをみると旧状を把握することができる。鳥瞰図は南側上空から見たものであるが、この古絵図を元にして描いてみた。

 壬生城の構造は、宇都宮城などと同様、下野ではありがちな、方形居館を拡大していった環郭式の平城であった。方100mほどの本丸を中心に二の丸、三の丸が取り囲んでいる。城域はさらに東に広がり、この先に大手がある。ここには丸馬出しがあったようである。この手の丸馬出しが現存している城郭が関東にはあまりないが、見てみたかったなあ。また、大手と搦め手が同じ方向にあるのはちょっと珍しいような気がする。そういえば土浦城も同様であった。そういえば城の構造自体、土浦城とよく似たプランだ。宇都宮城とも似ている。平地の環郭式の城郭は結局、似たような構造になってしまうということか、、それとも、同様のプランが導入される何かの要件があったのであろうか・・・・このことについては後日また考えてみたい。

 その後墓荒らしさんからの情報で、次のことをご指摘いただいた。「栃木の城や陣屋を紹介している本に、この件に関して「・・元禄五年・・・松平輝貞は、それまで南に面していた大手門を東の日光街道沿いに移した・・」と記載されている」とのことである。どうやら、大手門はもともと現在の方向にあったわけではないらしい。










 城址公園に建つ模擬門。模擬といっても、実際、この程度の門は城にあったに違いない。


















 

 本丸南西側の横矢の折れのある城塁。しかし、虎口がこの脇にあるわけでもないのに、このような横矢を入れたのはどうしてなのだろうか。














 
 本丸南側の虎口。土塁は旧状のままだと思うが、下に石垣が造られている。上三川城、栃木城などと同様に、堀の水をきれいに維持するためには、やむをえない処置なのであろう。しかし、いかにも嘘っぽく見えてしまう・・・・・。
















 本丸内部の土塁。土塁に垣根で植えられたこのマークは壬生氏、あるいは壬生町のマークか。郭内の土塁は角の部分に、櫓台といってもよさそうなスペースを持っているが、実際には櫓などは建てられていなかったようである。















 

 壬生城は寛正3年(1462)、下野国に来た壬生胤業がこの地に居館を営んだ。ただし、当初は北方300mの常楽寺の西隣辺りであったという。その後戦国期になるにしたがって、城地の拡大を期した壬生氏は、現在の地に壬生城を築くに至ったでのはないかと思われている。

 壬生氏はその後しだいに勢力を伸ばしていき、鹿沼氏を滅ぼして鹿沼城を奪ったりしている。しかし、小田原の役で北条方に加担したために滅亡する運命となる。

 その後、壬生城には結城氏が入城。以下は、

 慶長5年(1600)、日根野吉明が入城。
 寛永13年(1634)、阿部忠明が入城。その後、一時期代官支配などがあり、三浦正次が城主となる。
 元禄5年(1692)、松平輝定、元禄8年(1695)、加藤明次が城主となる。

 そして、正徳2年(1712)、鳥居忠英が城主となり、明治維新まで続いていくことになる。このように近世に至っても用いられ続けた城郭なので、現在見られる遺構も、近世にはいってからのものであると思われる。






 

助谷(すけがい)城(栃木県壬生町大字助谷字堀の内)
  

 助谷地区には堀の内の地名があり、中世の居館があったと想定される。写真の宝光院の周辺がそうではなかったかと推測されるが、詳細は不明。土塁や堀が一部残っているという。















 

























大竹屋旅館

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