松山城(埼玉県吉見町字城山)

 (03.7.19)雨交じりのこの日、20年近くぶりに松山城を訪れた。松山城は関東戦国史に何度も登場する実に有名な城である。滑川を天然の水堀として、西に突き出した比高40mほどの台地を、巨大な空堀で区画した複雑な縄張りを持っている。それぞれの郭の間にある堀は大きいが、土橋は設けられていない。現在は堀底に下って上がる道が付けられているが、往時は木橋が架かっていたのだろうと思う。また、それぞれの郭の大きさは、戦国末期まで用いられていた城としてはあまり大きくないのが印象的である。主な郭としては、先端のほうから、本丸、二の丸、春日丸、三の丸の4つが連郭式に配置されており、これが城の主要な部分となる。

 松山城はもともと関東管領扇ヶ谷上杉氏の城として登場する。上杉家臣の上田氏が築城したのに始まるという。その後(天文15年頃)、北条氏康は川越夜戦で上杉連合軍を破り、その勢いを駆って北上、松山城をも攻撃、城主の上田氏は北条氏に降伏して、それ以降、松山城は北条方の城となる。さらにその後、永禄3年、越後から北条討伐のためにやってきた上杉謙信は松山城を攻撃、落城させた。それ以降しばらく上杉方の城となるが、後、武田・北条連合軍が来襲、再び松山城は北条氏の城となった。

 しかし、天正18年、豊臣軍の上杉・前田軍に包囲されると衆寡敵せず松山城も開城。その後松平氏が1万石で入部したが、近世紀には天領となり、城は廃城となり歴史の幕を閉じた。

 このように松山城は関東の戦乱の一方の中心となった重要な城である。武田・北条連合軍に攻められたときは、2500人の城兵で、連合軍5万5千の大軍に耐えていたという。それだけの城でありながら、現在見る城にはそれほど、大きな郭はなく、2500人もが本当に籠城できたのだろうかという気もする。ただ、複雑に構成された郭の配置、深い空堀などは、北条方により、かなりの手が加えられたものであろう。さらに北側の根古屋地区、北郭、大堀を挟んで(この堀は現在は湮滅している)東側の武蔵丘短大のある位置にも外郭部があったと言われ、外郭部をも含めると、広大な城郭ということになろう。20年ほど前に来たときにはこの短大はなく、ここは土砂が削られた跡の荒地となっていた。








 東側の滑川にかかる橋から見た松山城。比高40mほどの台地の先端部にある。この山の北側には観光地としても有名な吉見百穴がある。さらに西側に「岩窟ホテル」というのもあったのだが、これも今でも観光場所としてあるのだろうか。今回はそちらには行かなかったので確認していない。















 台地先端の南西側下にある登城道から上がっていくと、切通しの虎口跡らしきところに出る。本丸と笹郭との間の部分である。

 この道は本来の登城道であったのかどうかよく分からない。こちら側から上がってくると、一気に本丸の直下まで出てしまうのである。そのわりに途中の道にもあまり防御の用がなされていない。だが、これは当時の搦め手道であったのかもしれない。

 写真の左が本丸の城塁。右手が笹郭。笹郭は長さ30mほどの細長い三角形の郭で、一段下を腰曲輪が取り巻いている。この搦め手口を監視するための郭である。

 この切通しのところに石段が付けられ、本丸に上がっていけるようになっている。












 本丸から見た太鼓郭とその間の竪堀(い)。この下に井戸郭がある。太鼓郭というくらいだから、時を知らせる太鼓が置かれていたのであろうか。
10×20mほどの小さな郭である。
















 本丸の惨状。以前来た時には本丸には寺院があったような気がするのだが、気のせいだったのだろうか。現在はただの草むらになっている。神社の建物らしきものが崩れてしまっている。平成の落城である。本丸は方50mほどの雑形の郭であるが、東南の方30mほどの部分と、東北部の櫓台とが、一段ほど高くなっている。













 本丸東北部の櫓台の上に建つ城址碑(う)。 これは以前来た時の記憶と同じだ。これが建っている場所は櫓台のように一段高くなっている場所である。城を象徴するような櫓が建っていると、さまになるのであるが、実際何かの建物があったのかどうかは定かではない。

















 本丸と二の丸との間の空堀。各郭間にある空堀はそれぞれ雄大で、この城の見所の1つである。本丸の櫓台の部分が張り出しているので、必然的に横矢が掛けられたような構造となる。深さは最大で10m近く、幅は15,6mほどある。写真は(う)の先辺り。

 郭と郭との間に土橋などがないのが、この城の特徴である。かつては木橋で連結していたのであろうと思う。
















 空堀は竪堀のようになって台地の下に向かって続いてさらに横堀と化す。(え)の辺りの部分である。


















 二の丸と春日丸との間の空堀。やはり深さ8mほどあり、木橋で連結していたであろうと思われる。二の丸も北側が東に向かって張り出しており、横矢構造になっている。二の丸は、城内でも最も大きな郭の1つで、最大長で東西40m、南北60mほどある。南端の方に神社の跡があるが、これも崩壊するのは時間の問題であるかもしれない。写真は(お)の部分。

 雨交じりの真夏の天気のため、薮蚊が特に多い。何十ヶ所もさされてしまった。これを書いている今、同時に手足もかゆくて掻いている。












 さらに東に進むと春日丸があり、その先が三の丸となる。写真は春日丸と三の丸との間の空堀(か)。この空堀がもっとも規模の大きなもので、深さ10mほどあり、城内側と三の丸とを区画している。緩やかにではあるが、やはり、この空堀にも横矢が掛かっている。こうした構造は戦国期、北条氏によるものであろう。

 この空堀は台地基部との切断を意図したもので、ある時期までの松山城は、ここら辺りまでが城域だったのであろう。写真右手が三の丸であるが、高さが大分違うのが分かるであろう。














 三の丸は夏場のため、かなり高さのある草がぼうぼうになっていて、どういう郭なのかもよく分からない。しかし、この先の堀を確認するために草むらを突破していった。(雨も降っているので、ズボンまで濡れてしまった・・・・)

 三の丸と広沢郭との間の空堀。規模は大分小さくなり、深さ6m、幅8mほどである。この先はさらに一段低くなっており、広沢郭と呼ばれているところとなる。














 (か)の堀底を通って北側の下に降っていくと、そこは畑地となっている郭である。ここを総郭というらしい。部分的に土塁や竪堀などが見られる。
 写真は総郭と、部分的に残っている土塁。















 総郭西下にある巨大な竪堀(け)。下の岩沢観音堂に続いている。ここを通ると台地下から城内にすぐ上がれてしまうが、両脇の塁上は郭となっており、この狭い竪堀を通ろうとすると、両側から矢や鉄砲の攻撃にさらされることとなる。ここは敵を誘い入れて迎撃するための空間であったかもしれない。
















 本丸北側下にある兵糧倉と本丸との間の堀。左手が本丸の城塁。
 兵糧倉は方20mほどの郭である。















 今を去ること20年近く前の2月のある寒い日、まだ真っ暗な4時に起きた私は始発の電車に乗っていた。この日、埼玉地方の主要な城を見て回ろうと計画していたのである。

 まずは東武の加須駅で降り、バスに乗って騎西城へ。そして、そこから「水城公園」行きのバスに乗り、忍城へ。忍城から行田駅に向かい、今度は秩父鉄道に乗り、野上駅まで行って、天神山城を見た。天神山城の模擬天守はもともと観光用の土産などを販売する施設だったらしいがその時にはすでに閉鎖されていた。20年後の今は、どうなっているのであろう。(私のHPで紹介している騎西城と天神山城の写真は、この日に撮影したものである。) 次はそこから秩父鉄道で寄居駅まで戻り、鉢形城に行った。この頃は鉢形城もまだあまり人の手が入っていなかった。それに、どの城に行っても人っ子一人いない。

 そして寄居から東武に乗り換え、東松山で下車。歩いて、岩窟ホテル、吉見百穴を見た後、松山城へ。当時は縄張り図などなく、ただひたすら城内を歩き回るばかりで、どういう構造の城なのかもよく把握できなかったのであるが、何度も空堀を下ったり登ったりしているうちに、なんだか雄大な気分になったのを覚えている。当時は上り道が分からず、三の丸の方から城内にもぐりこんでいった。冬の日の夕方近くで、城内は荒涼としていたが、城址に一人たたずむ私の脳裏には戦国武者たちの雄叫びが聞こえてくるかのようだった。

 20年経って、町の様子や城内の建物も変わってしまったが、城の遺構そのものはまったく変わっていなかった。おそらく400年間、ほとんど変わっていないのであろう。これから先の何百年も変わらずにいてくれるであろうか・・・・・・。

 その日はさらに川越城に寄って帰ったのである。昔も今も、ハードなペースで城を回ることは変わっていない。私の城めぐりのペースは、普通の人から見ればまさに城内を走り回っているという状態であろう。その日もくたくたになってしまった私は、翌日から風邪を引いてしまい、熱にうなされることになってしまったのであった・・・・・。

 *なお、松山城については埋もれた古城でも詳しく解説されている。






















大竹屋旅館

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