松代城(長野県長野市松城町海津城址公園)と川中島古戦場

*松代城は近世に真田氏の城として栄えた。しかし、その前身は、武田信玄が築かせた海津城であった。現在復元工事が行われている海津城(松代城)と川中島古戦場について簡単に紹介してみた。
 真田氏といえば上田城で徳川軍を迎え撃ったという印象が強いのであるが、実際には江戸時代を通じて、松代藩が真田氏の拠点であった。

 松代城を東南上空から見てみた。城は廃藩置県後、破却が進み、本丸の石垣を除いて堀も多くが埋められ、土塁も崩され、学校の敷地となりグランドなどが置かれるに至った。したがって、旧状を復元するのは不可能に近いのだが、古図に基づいて復元した「城郭体系の図」(松代町史による)を基にして鳥瞰図を作成した。現在復元工事が行われているが、本丸と、二の丸の土塁についてはほぼ合っているように思う。なお、今回の復元は本丸周辺の石垣や土塁、城門などが中心で、櫓などの建造物は見送られたようだ。三日月堀の辺りが駐車場になっているのだが、できればこの辺りも復元してもらえると非常に見所が多かったのであるが、残念である。ちょうどこの辺りを松代電鉄の線路が通っているので、どうにもできなかったのであろうか。

 本丸は80m四方ほどの広さで、近世大名の居城としては異常なほどに狭い。しかし、これはおそらく、旧海津城の縄張りをそのまま用いたが故のものであろう。つまり武田信玄が築いた海津城の本丸も、ほぼ現在の本丸と重なると考えてもよいのではないだろうか。

 本丸には三基の二重櫓が建っていた。中でも北西側の石垣は天守台のように大きく、この部分には御三階櫓が建っていたのではないかと思われるのであるが、参考にした図には二重櫓しか描いていないので、すべて二重にしておいた。また、二の丸外縁部にも石垣が用いられていた可能性があるが、城塁が曲線を描いているので、とりあえず土手と考えてみることとした。

 また、この図からははみ出てしまったが、右側の堀の外側にも三日月状の馬出しがあったようである。これもできれば見たかったなあ・・・・。グランドの下敷きになって消滅したのであろう。

 城の北西側には古千曲川が流れていたということだが、川の流れは大分変わってしまっているらしく、現在の千曲川は600mほど北側に行ってしまっており、この場所には神田川という小さな流れがあるだけである。







 (あ)の辺りから、本丸大手の引き橋門とその背後の太鼓門とを見てみた。今回の復元ではこの本丸大手の内枡形の復元が、メインとなっている。埋められていた堀も再びに掘られて、そこには蓮が一面自生している。しかし、ここはガマ蛙が多い。やたらとゲコゲコ騒いでいて、ちょっと気持ちが悪いほどである。














 上の引き橋のところから、右手を見てみた。第二次大戦中に大本営地下壕が築かれたという象山が迫って見える。














 東側の堀は途中から空堀になっている。堀底は平坦でかなり広く、空堀にしておく意味がないようにも思える。本来はここにも水が入っていたのではないかと想像されるのだが、よく分からないので、鳥瞰図でもここには水を描いていない。













 本丸内部から太鼓門を見てみた。二階建ての櫓門でなかなか立派な建造物である。きちんと木造で作られているため、現存と言われても納得しそうだ。文字通り、時を知らせる太鼓がこの中に収められていたのであろう。
















 上の太鼓門から、内枡形の内部に入ってみた。20m×10mほどの空間である。前にある引き橋門は薬医門である。「引き橋」というくらいであるから、いざという時には城内に引き入れることのできる構造であったのだろうと思われる。
















 (い)の辺りから北西の櫓台を見てみた。この形状からして、単なる櫓台というよりも、天守台と言ったほうがぴったり来るように思える。これを見ていると、どうしても御三階櫓(天守)があったと思えてしまうのであるが実際はどうだったものであろうか。外様大名なので幕府に遠慮して、図面では二重櫓にしておいたということもあったのではないかと思うのであるが・・・・・・・。沼田城で見事な五重天守を築いた真田氏が、二重櫓で我慢できたとは思えない。














 天守台脇の北側には「北不開門」がある。これは現在まだ工事中であり、完成してはいない。不開門ということなので普段は使用してはいなかったのであろう。北にあることといい、不浄門のようなものであったのかもしれない。















 さて、松代城をちょっと離れて、川中島の古戦場も一回りしてみることにした。まずは八幡原の古戦場跡へ。永禄4年(1561)第4次川中島合戦で武田信玄が本陣を置いたといわれる所で、「甲陽軍艦」ではここで信玄と謙信の一騎打ちがあったことになっている。これについては川中島・謙信・信玄一騎打ちの真相についてでもまとめてあるので、よろしければご参照ください。

 ここは現在史跡公園となっている。というより観光地になっている。駐車場も広いのだが、夜間から朝にかけては閉鎖されていて入ることができない。目の前に駐車場があるのに中に入れないのである。しかも周辺には「駐車禁止」の立て札がいっぱい。意外と遠くから車で来る人には不親切な観光地である。

 ここには例の一騎打ちの像などがある。これは信玄の側から撮影してみたものであるが、馬上から攻撃されるとかなりの恐怖感があったことと思われる。












 今度は逆に謙信の側から撮影してみた。馬の高さはかなりあり、通常の剣では、相手に致命傷を与えるほど、深い傷を負わせることは難しそうである。なお「甲陽軍艦」にはこのとき謙信が3太刀切り付けて、信玄は8太刀受け止めたとなっているが、現地には「3太刀7太刀の碑」がある。7の方が語呂がいいので、変えてしまったのかもしれない。

 なお、この八幡神社の周辺にはあちこち低い土塁の跡が見られる。これは、もともとあったものなのであろうか。もしそうなら、信玄が本陣を構えた際に構築されたものということになるであろう。













 先の銅像の脇に「執念の石」というのがある。信玄を切りつけた武者が去って行った後、信玄のそばにいて武者の馬を槍で衝き、彼を追い払った原大隈は、実はそれが謙信であったと知って、「悔しい!取り逃がすとは!」と叫んで、そばにあった石を思いきり衝いたのだと言う。執念のこもったその太刀は、思わず石を貫き通してしまったとか。

 実際、この石には剣が一本通るほどの、いかにもそれらしい穴が開いている。実際に原大隈が刺し貫いたとも思えないのだが・・・・。いや、苔の一念岩をも通すともいうから、あるいは本当かも・・・・。













 八幡原を去り、上杉方の史料で、実際に謙信・信玄が一騎打ちしたことになっている御幣川を通過して、雨宮の渡しにやってきた。ちなみに御幣川は、犀川の支流であったが、現在では流れが変わってしまったために、川そのものがなくなってしまい、地名だけにその名残を留めている。

 正面の山が妻女山、謙信が本陣を置いたところであるという。だが「甲陽軍艦」では謙信の本陣は「西条山」であるとなっている。この近くに西条という地名もあるのであるが、ただしこの地名は「にしじょう」と読むらしい。ということは、謙信が陣取ったのは「西条(にしじょう)山」であり、ここではないということになるが、まあ、とりあえず現地案内板の内容を信用することとする。

 千曲川はこの辺りでは幅20mほどで、浅瀬を探せば、粛々と渡ることも可能なのであろう。

武田側は西条山を背後から攻撃する「きつつきの戦法」を取り、それを察知した上杉方は夜半にここから川を渡ったという。この「きつつきの戦法」も実際にあったのかどうかは分からない。そのことについてはまたそのうち検討してみよう。








 妻女山の展望台から古戦場方面を遠望してみた。450年前、ここで多数の死傷者を出す戦闘があった。現在では静かな田園地帯である。

 ここに展望台があるのはよいが、道が狭くて車を置ける所がない。奥の神社辺りに止めて歩いてくるしかないのである。
















 千曲川沿いにある山本勘助の墓。勘助はこの戦いで討ち死にした。墓は八幡原の本陣から千曲川を挟んで反対側の堤防の下にある。この堤防上の道は一見車止めをしているように見えるが、進入することは可能である。表から入ってくると道がとても狭いので、この堤防上の道から来るしかないだろう。

 この墓は、元文4年(1749)、松代藩家老鎌原重栄がこの地に移して碑を建てたものであるという。というわけで、当時のものではない。

 勘助は講談などでは武田信玄の軍師のように描かれているが、実際この時代に大名が軍師をおくことは少なく、勘助もそれほどの存在ではなく、一連絡将校に過ぎなかった。彼が信玄に採用されたのも、軍略に拠るものではなく、彼の持つ築城技術を評価したからであった。そのため海津城の縄張りには勘助の思想が生きているかもしれない。












 八幡原本陣の南800m、千曲川の堤防下に典厩寺がある。ここは合戦で討ち死にした信玄の弟、典厩信繁を祭った神社である。ここの本堂には大きく武田の四つ菱が描かれているのが印象的である。なぜか現在では水子供養の寺院となっているようだ。 

 典厩が討ち死にしたのは「甲陽軍艦」などでは、永禄4年、上杉側の史料では御幣川で一騎打ちがあった弘治元年のこととしている。「妙法寺記」には永禄4年とあるので、これは「甲陽軍艦」が正しいと思われるのであるが、上杉方の史料はなぜ、彼の討ち死にを第3次川中島合戦のときのこととしたのであろう。そこにも何か秘密が隠されているような気がしてならない。











 さて、この合戦の際に信玄が当初陣取ったのは茶臼山ということになっている。というわけでここにも行ってみた。茶臼山は標高700余りもある高い山で、しかも裾野が広く延びていて、戦場から余りにも遠い。ここに信玄が陣取ったというのはいかにもうそ臭い。

 うそ臭いといえば、現在言われている「川中島合戦」の様相そのものがどうもあやしい。確実な史料上からは、何度かこの辺りで合戦があったらしいということしか分からない。「川中島で5度合戦があった」というのは実は江戸時代に成立した「川中島五度合戦次第」という、資料的にはまったく信用できないとされている軍記物によるのである。一番年代的に近い時期に成立した「甲陽軍艦」では8回くらい合戦していることになっている。しかも第一次は、謙信が、まだ18歳のときのことで、このとき謙信は佐久平まで進出したこととなっているのである。しかし、これでは荒唐無稽すぎるであろう。ということで、現実の合戦の様相は実はまったく分からないのである。これについても、日を改めて考察してみる必要がありそうである。






















大竹屋旅館

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