足利政氏館(久喜市本町六丁目)

 

 足利政氏館は、JR久喜駅の北西1,2kmの所にあった。現在は甘棠院という寺院の境内となっている。

 足利政氏は古河公方成氏の嫡男である。彼は古河公方の跡を継いだが、息子の高基や、(後の小弓公方)義明らと折り合いが悪く、血縁の抗争を繰り広げていた。結局、高基に古河を追い出された政氏は、小山氏を頼って祇園城に赴くことになる。その後永正14年(1517)、岩槻城に移り、ここで出家して道長と号するようになる。その頃、この館に入ったらしい。ただし、この館からは鎌倉時代の板碑も発見されていることから、政氏が入る前から豪族の館があったものと推測される。

 永正16年(1519)、政氏は館を寺院に変え、甘棠院と号した。以降、享禄4年(1531)、ここで没するまで、政氏はここに居住していた。

 鳥瞰図は北東上空から見たものである。甘棠院のある部分が本郭で、ここに政氏は住んでいたと思われる。しかし、現在見られる遺構は、あちこち湮滅しているものの、複郭でかなり規模の大きなものである。(東側の堀は、江戸時代に書かれた絵図にはすでに描かれておらず、そうとう古い時代に埋められてしまったものらしく、形状はまったく分からない。) 

 本郭と2郭との間には横矢の掛けられた堀がある。保水のために関東ローム層まで掘られた水堀であった。図の赤い線で囲まれた部分はすべて湮滅しているが、東の端にも横矢のような構造の名残があり、これが北側の外堀に続いていたらしいことから、図のように東北部が出っ張った構造だったと思われる。

 また、西の外れにはL字型の堀が残っているらしい。これは「猪俣堀」と呼ばれている。ということは西にも堀に囲まれた1郭があったのである。つまり最低でも3つの郭を持ち、横矢などの構造も持った技巧的な城であったという事である。

 このことはどう見るべきであろうか。遺構からすると戦国期の城であると思われる。しかし、永正16年にはここは寺院となっているのである。この寺院が戦国期に城砦として改修されたのか、あるいは、寺院自体が戦国時代に自衛のために武装化したのか、どちらかは分からないが、政氏が館として使用したという以外にも、城としての歴史があったことは間違いないだろう。





 甘棠院の門。実に立派だ。まるで城門である。しかし、この寺院は戦国期、城として用いられていたようであるから、これはまさに城門といってよいものなのかもしれない。

 この寺院は天文17年(1548)、火災に遭って堂宇を焼失しているというが、これも戦乱によるものなのかもしれない。















 (あ)の部分から見た堀の跡。底は湿っており、かつては水堀であったと思われる。



















 甘棠院の本堂。格式の高い寺院ということもあってか、中に立ち入れないように門に鍵が掛かっていて近寄ることができない。仕方がないので、門越しに写真を撮った。ふと見ると、門には「二両引き」の家紋が彫られている。うーん、さすが足利!(なんのこっちゃ)

 寺院にはいくつかの重要文化財などが残されているが、足利政氏の墓といわれる五輪等も残っており、そこには「享禄四年七月十八日甘棠院殿吉山道長大禅定門」と刻まれているという。















 本堂北側の横矢の掛かった堀を見たかったのだが、本堂側からは近づけない。仕方がないので、外側から回り込んだが、こんな状態で、まったくどこが堀なのかも分からない。
 それにしても、なんだか分からない鳥がいっぱいいて、ものすごく騒いでいる。けっこう大きな鳥だが、いったいこれは何だ? かなり不気味だ。よく見ると鳥の死骸も落ちている。とても遺構を確認するどころではなかった・・・・・・。















 





















大竹屋旅館

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