丸岩城(長野原町横壁)

*ヤブレンジャー結成の地*

 (03.8.10)丸岩城は真田昌幸が築いた城であったといわれる。天正10年以降、南側の須賀尾峠を越えて進入しようとする北条勢を押さえるために置かれた城であった。鳥瞰図は南西上空から見たもの。標高1130m、比高350mの丸岩山の山上が城址である。しかし、険しく、尾根の細い山であるため、郭を造るようなスペースはほとんどなく、小規模な砦というような城である。山頂の1郭も6m×9mほどしかなく、ほとんど居住性はない。尾根が土塁状になっている部分、数段の腰曲輪などに人工の跡が見られるが、ほとんどは自然地形なのである。本当に城なのかどうか疑問も残るが、目立つ山なので、ここに城を築いたというだけでかなり示威的な行動であったかもしれない。

 今回、ここを「常総戦隊ヤブレンジャー」のメンバーと共に訪れた。私一人ではとてもこんな山、登る気になれない。しかし、このメンバー、「近くまで来たからついでにちょっと登ってみましょうよ」と、こうきた。ここがポイントである。今回、決してこの城を見るために群馬遠征をしたわけではない。あくまでもここは「ちょっと登ってみようよ」というノリなのである。しかし、下の写真を見てもらえば分かるとおり、このようなものすごい山なのである。ここを「ちょっと」「ついでに」登ってみようと普通思うであろうか。しかも、今は真夏である。さらに朝食を食べたばかりで、この後も、いくつも城を回る予定なのである。なのに「行きがけの駄賃で」・・・・・・・。もう何も言うまい。みなさんにとことん、おつきあいしましょうぞ。

 北側山麓(国道145号線側)から見た丸岩山。垂直に切り立った崖。どこから見ても目立つ山である。まじにこれ登るのかよ〜。だいたい本当に登れるのか〜。

 しかし、誰も文句を言わず登り始める。ちょうど「須賀尾峠」の辺りに「丸山登山口」という小さな案内板があり、そこから登っていけるようになっている。この案内、かなり小さい看板なので、注意していないと見落としてしまいそうだ。














 山中を進む「ヤブレンジャー」のメンバー。

 一番左から「ゴロレンジャー」・・・・・戦隊中、最大最強の鉄砲玉。またの名を「薮に道をつける男」 彼に言わせるとどんな薮も崖も「いい道じゃないですか〜」 目を離すとどこへ行ってしまうか分からない。

 次が「ムクレンジャー」・・・・・現在唯一の女性隊員である。「昨日突然思いついて長篠までいってきました〜」というような女性とは思えない行動力を持つ。思いついてちょっと長篠まで行くという人がいったい日本に何人いることであろう。

 次は「ウモレンジャー」・・・・・ラリー仕様の車で城山を駆け登る。雪の積もった山城だろうが一人で突き進んでいくという狂気に取り憑かれた男である。

 一番右が「オカレンジャー」・・・・・・ビールを飲んで酔ったままでも城塁を歩くという最も危険な人物。車に足を踏まれても平気な男である。

 そして私が「オレンジャー」とでもいうことになろうか。なぜオレンジャーなのか。それは冬に一度でも私と城攻めをしたことのある方ならお分かりであろう。

 絵を描きながら優雅に回りたいという多少上品な私にとって、このような野蛮衆と歩くのは正直きつい。しかし、こういうメンバーだと、思いも寄らない遺構を発見したりもする。

 なお、追加メンバーは随時募集中。特に資格はないが、しいて言えば夏の薮の中に入って涼しい顔ができることかな。



 南の須賀尾峠の方から続いた峰が、いったん下がって馬の背状になっているため、丸山は完全に独立山の形態を成す。そのためこの部分は天然の大堀切となっている。写真は堀切部分から丸岩方面に登っていくところ。昨日の台風一過のため、斜面は滑りやすい。
















 尾根道が高くなり、一見土塁のようにも見える。図の(う)の辺りである。「城郭体系」によると、これは風除けのために土塁で、これがなけらば強風の際には通行できなくなる、と書いてあった。しかし、これが本当に土塁であるのかどうかは疑問の残る所である。高さも1m未満で、この程度では、風除けにもならないのではないかと思われる。しかしまあ、崩れてしまったのかもしれず、そこは何とも言えない。















 これが1郭。最高所である。とはいえ、6m×9mほどの狭い空間でしかない。周囲には50cmほどの低い土塁があるが、この形態からすると、これは郭というより、狼煙台ではないだろうか。周囲の土塁は、狼煙を燃やすための風除けのもののように見える。このスペースでは、まとまった兵力を駐屯させることはとてもできまい。














 1郭の東側には人工的な段差がある。(あ)の部分。1.5mほどの高さであるが、これは小さいながらも切岸として削られたものであろう。この先はずっと尾根が続いて、やがて行き止まりになる。













 尾根の北側には何段かに削平された腰曲輪がある。幅4m、長さ15mほどである。こちらの方面の下は上の写真の通りの垂直岩盤であり、防御の必要性はまずないと思う。であるのに、なぜ、何段にも腰曲輪が置かれているのか。これには2つの理由が考えられる。

1.実は前面の岩盤方面からも登山口があり、こちらの方面も抑える必要があった。

 しかし、「城郭体系」でも「南方の須賀尾峠から以外に登路はない」とあるし、どうみても前面からの登頂は不可能そうである。

2.山上に多くの兵を駐屯させることはできないが、山上や峠の敵に対する示威行為として、この腰曲輪上に旗指物をたくさん立ち並べていたのではないか。

 これは実に面白い発想である。この前面はどこからでも特に目立つので、ここに旗を並べたら、大軍勢がいるように見えるかもしれない。下からでは山上の様子を伺うことは不可能であるし、敵にしてみればかなりの脅威に見えたかもしれない。しかもこの城を築かせたのが真田昌幸であることを考えれば、その程度のフェイクはお茶の子さいさいであろう。





 登城路の途中には、写真のように、まるで人工的に平に削ったかのような石がごろごろしている。石材としては良好で、ちょっと手間を掛ける気さえあれば、そうとうの石垣も組めるであろう。しかし、そうしていない所を見ると、そこまできちんとした城に仕上げるほどの気持ちはなかったものであろう。















 まとめると、丸岩城は、城と言うより、物見、あるいは狼煙台として用いられた施設であったと思われる。注目すべきは、岩盤側に設けられた腰曲輪の用途で、これが旗を立てて敵を欺くためのものだったと仮定すると、いかにも真田的な謀略を具現化した砦であったということになるだろう。もちろんこれは想像に過ぎないが。 

*参考 埋もれた古城丸岩城のページに、この岩山を上から見下ろすという信じられないロケーションの写真が載っている。 





















大竹屋旅館

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