丸子城(静岡市丸子)

 丸子城は国道1号線の旧道とバイパスとが合流する「丸子IC」のすぐ北側にそびえる山上にある。駿河匠宿の駐車場に車を入れて、登り始めると、10分ほどで、東の端の稲荷神社のところに出る。

 城は、細尾根上に削平地を何段にも築いた連郭式のものである。見所は6の郭先端の横堀、1郭から4の郭までの北側に長く延びた横堀などである。また、10や11の小郭の周囲には三日月堀がある。これは千葉県の城郭では見られないものである。

 1郭の東側の端には土塁で囲まれた枡形状の部分がある。この先は2郭との間の堀切であるが、2郭部分には出っ張りがあり、ここに橋脚が架けられていたようである。また、1郭の東南の尾根下は、5段に渡って半月状の腰曲輪を配置している。こちらの斜面がもともとは緩やかだったのを、こうした構造にすることによって、斜面を急峻にして取り付きにくくなるようにしたものである。

 一方、1郭の西側には2段の堀切と三日月堀があり、ここが最も守りに重点を置いた地区となっている。11の小郭が「馬出し」であるかどうか気になるところであるが、11の南脇から郭内への導入路が認められ、郭内を経由して9の小郭に出るルートがあることから、ここに一方の登城路があったと思われる、したがって、この小郭には馬出し的な機能があったと一応考えておいてよいであろう。また10の脇にはこの城で最も形の整った竪堀(あ)がある。この(あ)は、敵を導入して攻撃するための戦闘空間であったと思われる。(もしくはこれ自体が通路であったかもしれない。)

 11の小郭も馬出し的な形態をしている。しかし、ここは馬出しというよりは下の方向を見張るための物見のような機能を有した部分であろう。

 4が今川時代の本丸と呼ばれているところである。この4から7までは、地勢が東側に傾斜しており、居住性はあまり高くない。今川時代には郭を平らにならすという労力はあまり払われていなかったようだ。つまり、そのころは、さほどの兵を駐屯させることもない砦のような規模の城郭であったということであろう。

 丸子城はそれほどの大城郭とも思えないが、しかし、各所に小技を効かせた城郭である。一見の価値ありといってもよいだろう。














 今回の「丸馬出しツアー」(03.11/22.23)参加のレンジャー隊メンバー。

一番左から、オカレンジャー隊員。今回も城歩きにビールはかかせない。酩酊状態ではいずれはヨタレンジャーにもなりかねまい。

次が、ワカレンジャー隊長。ゴロレンジャーから改名後、初出陣である。今回は薮が多くなかったので、駿河には彼のつけた道は多くは残していない。残念!

真ん中がウモレンジャー隊員。最近、緻密な鳥瞰図をネットで紹介するようになってきた。信玄をも惑わす横笛の名手でもある。

その右側が、サエモンジャー名誉顧問。千○城郭研究会の中心人物である。しかし城よりはSL、とろろ、そして芋焼酎が今回参陣の目的であったようである。

一番右側がタカレンジャー隊員。ダイエーホークスをこよなく愛する九州男児、そして鷹の目を持つ男である。城の看板を誰よりも早く見つけることができる。

 今回寸又峡温泉に泊まって、早朝、足慣らしに「夢の吊り橋」まで行ってきた。しかし、ここまで宿から遠いこと遠いこと。足慣らしどころか、すっかり疲れてしまった。この日、険しい山城がなくてよかった・・・・。

それにしても、この吊り橋の、どこが「夢」やねん。誰かに揺らされて、悪夢でも見るってことなのかなあ。 さあ、みんなで揺らせ〜!






 駿河匠宿方向から見た丸子城。ここから比高100m余りある。ここから取り付くと、東端の稲荷神社のところに出る。大手道といった所であろうか。
 静岡県らしく、途中の斜面はみな茶畑となっていた。






















 登城口途中にあった朽ち果てた五輪塔。こういうものこそが、戦国丸子城に関連したものであったのかもしれない。今川、あるいは武田の武将の墓か。


















 東側先端の稲荷のある所から、幅8mほどの尾根的な地形の部分(7の郭)を上っていくと、やがて6の郭の脇の横堀に到達する。写真がそれで、堀底からの高さは6m、幅は土橋部分で5mほどである。


















 横堀は東側から北側に折れ曲がり、その先は6郭北側の虎口に接続している。



















 5郭入口の木戸跡から、5郭内部を見た所である。しかし、写真の通り削平が甘く、地勢が斜めのままである。この辺りを見ていると、あまりきちんと造られた城ではないように感じられてしまう。















 4の郭。今川時代の本丸という標柱が建っている。といっても20m四方ほどの広さもない。建物をいくつも建てるほどのスペースもない空間である。

 向こう側は削り残しの土塁で、櫓台といってもよさそうなスペースがある。その先の尾根との間には堀切がある。


















 今川時代の本丸から北の尾根(駿河峰)との間の堀切を見た所。堀切の向こう側の上ではウモレンジャー隊員がカキカキをしている最中であった。

 この尾根はずっと北側に延びているが、これ以上先には遺構は特にないようである。この尾根にはあまり防御の必要を感じなかったのであろうか。

















 4の郭の西側にある空堀と土橋。両脇の堀切は下の横堀までは掘り切られてはおらず、深さ2mほどの箱堀となっている。




















 この北西側の下には11の小郭がある。一辺が5mほどの三角形の郭で、周囲には三日月堀がある。中央にオカレンジャー隊員が立っている。

















 2郭と1郭との間の堀切。向こう側が1郭である。登っていった所が2段になっているのが分かるが、これが枡形である。
 この空堀には北側に土橋がある。これは横堀から来る敵に備えたものであろう。



















 これがその枡形内部。一辺6mほどの方形の空間である。この先が1郭となっている。

















 1郭下の堀切。この堀底からさらに一段下の郭に行く道がついている。



















 10郭周囲の三日月堀の脇から下まで延びている横堀(あ)。ただ掘っただけではなく、右側には竪土塁が延々と続いている。他の竪堀よりもよほど念の入った造りである。深さ2m、幅3mほどはある。敵を迎え撃つための導入路、あるいは通路として用いられていたと考えられる。

















 10の郭の周囲の三日月堀。堀そのものの規模はさほどではないが、きれいに弧を描いている。これぞ武田の城という感じがする部分だ。


















 10の郭内部の通路を通って9の郭に向かう隊員たち。「ここを通って1郭の方にいけるんだから、やはり馬出ともいえるのではないか」といった会話をしているところである。



















 1郭南下の尾根には5段にわたって小規模な郭が連続している。それぞれの郭の間にはかなりの急斜面の落差があることから、武者たちが溜まるところというよりは、緩やかな斜面に切岸を造作した名残のものと見た方がよいかもしれない。写真は8の郭の脇にある土塁。この脇には竪堀もある。

 この郭には明瞭な石積みも見られるのだが、それが往事のものかどうかは明らかではない。ここには近代に建物が建っていたのではないかという痕跡が見られるのである。















 1郭の南側の下には妙見様が祭られていた。武田、徳川にも妙見信仰があったのか。こういうのをみると、北総を思い出して、なんだか懐かしい気分になってしまうのであった・・・・。




















 主要部北側の横堀の外側の土塁は、1郭と2郭の中央の下辺りで、複雑な形状をしている。これも虎口に関連する造作の名残なのであろう。写真でも、土塁が直線的なものではなく、クランクした形状になっているのが見て取れると思う。

















 11の小郭下の三日月堀。オカレンジャー隊員と比べてみて分かる通り、それほど大規模なものではない。しかし、こういう所に三日月堀を伴った郭があるというのは常総では見られない構造である。


















 さて、城から降りて名物「とろろご飯」を食べた後、丸子城の下北東にある柴屋寺に行ってみた。ここは連歌師宗長にゆかりの寺院である。宗長は、ここで余生を送ったといわれる。その前に彼は全国行脚を行い、千葉の小弓城にも来ている。まったくご苦労様です。

 入場料300円を払って中に入ると、足利義政から拝領した文福茶釜、今川義元から拝領した横笛、武田信玄らから拝領した・・・なんだったかな?などなど品々が展示されている。しかし、これってすべて本物なのであろうか。
 















 丸子城はもともとは今川氏の城として築かれたものである。文明8年(1486)、今川義忠が討ち死にした後、その跡目を巡って、義忠の嫡子竜王丸と伯父の小鹿新五郎範満が対立した。その混乱の中で、難を避けるために竜王丸と母の北川殿は駿河から「丸子の館」に移ったという。その丸子の館とは、上の柴屋寺辺りにあった居館のことではないかと言われている。その頃、丸子城がどの程度の城として存在していたのか分からないが、まあ、砦に毛が生えた程度のものであったろう。

 永禄11年(1568)、武田信玄は駿河に侵入し、武田による支配が行われるようになった。丸子城には山県昌景が入城したと言われるが、この城が本格的に整備されたのはこの山県氏の時代のことであったろう。その後駿河が徳川氏の支配下に置かれると松平氏が入城したと思われるが、その際にも改築されているのかもしれない。しかし、具体的にどの部分がその時期の遺構であるのか、詳細は不明である。






田中城(静岡県藤枝市西益津)

 環郭式城郭という言葉があるが、田中城はまさにその典型的な城である。こんなに見事に丸い城にはなかなかお目にかかれない。この地域の拠点的な城郭はみな山城か平山城なのに、この城だけが平城であることが非常に特異に感じられるが、よく見ると、中心の本丸だけは方形をしている。これはもともと単郭方形の居館だったものを徐々に周囲に拡張し、武田流の丸馬出などを付けたりしているうちに、現在のような形に成長・発展を遂げたという発展ゆえのものであろう。

 平城で宅地化が進んでいると言うことなので、遺構についてはほとんど期待してはいなかったのであるが、城内をざっと歩いてみたところ、あちこちに遺構らしきものが残存していることに気が付いた。看板なども随所に建っている。じっくり探せば、かなりの部分を確認できるのではないかと思う。だが「城郭体系」を見ると、もっと多くの遺構がありそうに見える。「城郭体系」が刊行されてからすでに20年が経過しており、その間にも、徐々に破壊は進んでいたということなのだろうか。

 このように街の中で遺構を探して歩くというのもなかなか面白いのだが、どういうわけか、山道を歩くのよりも、普通の舗装路を歩いている方が疲れてしまう・・・・。

 堀は全部で4重ほどあり、すべて水堀である。これらの堀の水は、下屋敷との間を流れている川の水を利用していたのであろう。堀の幅は10〜20mほどであり、郭内側には土塁が盛られていたようである。これは3の丸周辺に何カ所か確認できる場所があるが、高さ4m、累上の幅が3,4mほどと、けっこう大規模なものであった。しかし、これを壊して堀に入れてしまえば、アッという間に宅地化するための土地はできあがってしまう。そのようにして壊されてきたのであろう。

 また主要な門には石垣で構成された枡形があったようである。







 3の丸の堀の跡。松原木戸の辺りである。堀の跡と思ってみると確かに堀の跡に見えるが、この辺りにはこの程度の段差のある水田がたくさんある。1mほどの段差があるが、これでは防御には心もとない。もとは泥田堀であったものであろうか。

















 下屋敷公園に移築された本丸隅櫓。図の「下屋敷」というところにある。写真の櫓や中間屋敷、茶室などがここに移築されている。

 この本丸櫓は、明治維新の際に奉行として入城した高橋泥舟の配下であった村山氏が払い下げて、住居として使用していたものであるという。本丸の9尺の高さの石垣の上に建っていたというが、この城に石垣があったというのが意外だった。
















 3之堀とあるが、位置からすると三の丸の堀と土塁の跡だと思う。図の遠藤屋敷(家老遠藤氏の屋敷)周辺の土塁ではなかったかと思われる。この部分だけ明瞭に土塁が残っていた。

















 本丸跡に建つ西益津小学校内にある田中城の模型。わりとよくできている。ミニチュア系の模擬天守があるのも楽しい。しかし、実際にはこのような天守は存在してはいなかった。


















 三の丸の堀と土塁の跡。御殿の脇の(あ)の辺りである。西益津中学校のすぐ脇にある。ここが1番城らしく遺構が残っているところである。背後は西益津中学校。幅は20mほどあり、土塁も4mほどの高さがある。しかし、堀の水は30cmほどの深さしかない。これでは簡単に渡れてしまう。

 この手前に武家屋敷跡があるのであるが、そこには高さ60cmほどの石垣が残されている。これが武家屋敷に関する遺構であるということだ。

 おっ、水鳥たちが遊んでいる。ちょっと驚かせてみようかな。














 大手ニノ門辺りの堀の跡。幅10m余りである。橋が復元されている所に、往時の橋もあったのであろうか。

















 新宿ニノ門の外側にあった三日月堀の跡。しかし、言われなければ気が付かない。もとはもっと幅があったのであろうが、隣のコンクリートのせいでかなり小さくなってしまっている。現在確認できる唯一の三日月堀の跡なのであるが、あと数年で隠滅してしまうのでは、と言う感じである。




















 田中城はもともとは今川系の居館があったところであった。武田信玄が駿河を支配するようになると、ここに馬場美濃守信房が入城し、城を大改修する。丸馬出などはこのころ造られたものなのであろう。諏訪原城、小山城などを結ぶ、中心的な城郭であったという。

 天正3年(1575)、長篠の合戦で武田勝頼が破れると、徳川家康はただちに駿河に侵攻。駿河近辺の城は次々と家康によって落とされて行くが、田中城も落城することになる。しかし、この攻城には足掛け2年掛かったともいい、田中城が平城でありながらなかなかの堅城であったということが分かる。その後は徳川方の城となる。

 大坂夏の陣の翌年、駿河で鷹狩りをしていた家康は、田中城で鯛の天ぷらを食べたことで腹痛となり、結局それが原因で死亡することとなったという話が有名である。

 その後も田中城は近世城郭として使用され、本多氏のときに明治維新を迎えることとなる。






小山城(静岡県榛原郡吉田町片岡)

 小山城の規模はさほどでもないが、ここには三重の三日月堀という珍しい遺構がある。これが城内最大の見所であろう。通常、台地基部との間には堀切が切られるものであるが、こうして三日月堀で区画するというのも武田流と言うことなのであろうか。ここには図の通り見事な三重の堀と丸馬出が見られる。堀内部にある二本の土塁は(い)の土塁よりも3mほど低くなっているので、(い)の累上から堀内部に入り込んだ敵を攻撃することもできたのであろう。

 しかし、その他の堀や土塁の規模は意外なほど小さい。城そのものもそれほど大きくはないのだが、他の堀や土塁は簡単に乗り越えられそうなものがほとんどである。ただ、城そのものはかつては大井川に突き出した台地上にあり、周囲は切岸のような急斜面となっていたので、天然の要害だけでかなりの防御性を発揮していたのかもしれない。

 三重堀の東南側には(う)の郭がある。案内板ではこれも「馬出し」とあるが、実際の所、どうなのであろうか。馬出しというよりは、脇の土橋を通る敵を側面から迎え撃つための郭といった感じの場所である。ただし、(う)の周囲は堀の幅も5mほどしかなく、深さも2m余りであり、防御的には弱点になりそうな気がする。

 大手と称されるのは三重堀の北西側にある。ここから下に降りていくと、そこにも小郭があり、そこに櫓台状のものがある。この櫓台と2郭の城塁との間の切通し部分にも城門があったのではないだろうか。











 湯日川に架かる橋の辺りから見た模擬天守。模擬天守は嫌いな人が多いが、こんなのがあると、誰が見ても、城だという認識をしてくれる。比高20mほどの台地の先端部を利用した城である。




















 城の麓にある能満寺。この脇から登城路が付けられている。



















 能満寺から上がっていくと虚空蔵堂のある郭に出るが、そこを進んでいくと1郭の空堀にでることになる。深さ3m、幅6mほどの堀である。それほど深くもないし、城塁もわりと緩やかである。こんなもので防備の要を成したのであろうか。


















 2郭に建つ模擬天守。犬山城をモデルにしたものである。このところマイナーな中世城郭ばかり回っていたので、模擬とはいえ、こんな建造物がある城に来たのは実に久しぶりであった。

















 1郭の外側にある丸馬出と三日月堀。規模はさほど大きなものではないが、明瞭に三日月堀だと分かる遺構である。畑になって埋められていたものを、古図に基づいて復元したものであるらしい。

 案内板に「三日月型をしていたので三日月堀と呼ばれる」という解説が書いてあるが、そんなこと解説を見なくても誰でも分かる。


















 2郭の外側の堀。いかにも復元したという感じの土塁の積み方をしている。深さ2m、幅3mほどと規模は小さい。あっという間に乗り越えられそうな堀である。


















 2郭の外側には3重の三日月堀がある。この城の最大の見所である。この方向は台地続きであるので、防御に力を入れる必要があったのであろうが、三日月堀をここまで重ねるのはとても珍しい。関東地方だったら普通に直線の堀切があるところであろう。



















 真ん中の三日月堀には水が溜まっていた。水をためておいて、水源としても利用していたのであろうか。

 一番外側の堀には「勘助井戸」というのがある。やはり、この堀の中に湧水点があるのである。

















 真ん中の土橋に隊長が来たので、その規模がよく分かる。真ん中の土橋の高さは4m、幅は7mほどである。



















 空堀に架かる木橋。(う)の郭と台地基部との間に架けられている。この部分は堀の規模も小さい。


















 大手口には模擬大手門らしきものがある。



















 天守に登ると三日月堀の形がよく分かる。これを上から見られるというだけでも、模擬天守の存在意義がある。



















 1郭の土塁。高さは50cmほどもない。いかにも復元といった感じの積み方である。もともと土塁はあったのであろうか。


















 小山城は、始め今川氏によって築かれたと言われるが、そのころの小山城がどの程度の城であったかは分からない。小城であったころであろう。

 今川氏が没落した後、徳川氏と武田氏とは大井川をはさんで今川領の東西をそれぞれ領国化するという盟約を結ぶが、武田氏はなぜか、川を越えて、この小山城を占拠した。そのため、それ以降何度かにわたって、ここが武田氏と徳川氏との取り合いの舞台となっていった。

 しかし、天正9年、高天神城が徳川勢によって落とされると、武田氏も小山城を維持するだけの実力はもはやなくなっており、城を焼いて甲斐に帰っていったという。







*関連サイト 埋もれた古城





















大竹屋旅館

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