前橋城(群馬県前橋市大手町)

 現在の群馬県庁周辺が前橋城の跡であった。

 前橋城は市街地化のためかなりの部分が湮滅してしまっている。しかし「蓬左文庫」に残る古図を元に復元してみた。近世初期の酒井氏の時代のものと思われるが、本当にこのような複雑な縄張りであったのかどうか、ちょっとあやしい。

 この古図では、主要な郭の周囲は石垣造りのようになっているのだが、実際にそのように大規模な石垣は用いられていなかったであろう。ということからすると他の部分も全面的には信用できないとは思うのだが、大体のイメージとしては合っているのであろうと考える。

 中世の前橋城は、長尾氏や長野氏によって築かれたのに端を発するというが、その頃の城がどんな様子であったのかはまったく分からない。永禄3年以降、上杉謙信がたびたび関東に越山してくるようになると、前橋城(当時は厩橋城)は、謙信の進軍のための拠点として用いられるようになるが、そのころもまださほど大規模な城郭ではなかったであろう。

 謙信が死ぬと、厩橋の地は武田勝頼の手に落ちた。しかし、天正10年に武田氏が滅びると、今度は関東管領として滝川一益がこの地に入ってくる。しかし、滝川氏支配は長く続かず、半年後信長が本能寺で死ぬと、滝川氏は北条氏に敗れて関西に去っていく。その後、結局、厩橋城は北条氏の手に落ちて、厩橋番が置かれるようになる。この頃、北条氏によって、城にかなりの手が加えられたことであろうと思う。

 天正18年、小田原の役で北条氏が滅びると関東は徳川家康の支配下に置かれた。厩橋には平岩親吉が3万石で入部した。さらに慶長6年には15万石で酒井氏が転封。近世の前橋城はこの平岩氏や酒井氏によって、基礎が固められていったと思われる。利根川沿いの河岸段丘上の位置取りは以前からと変わらないであろうが、近世の間にも、利根川の氾濫によって大分城地が削られているというので、本来の城地はすでにすっかり川の底に沈んでいる可能性もある。

 その後幕末になって、江戸の北方防備の必要性から、前橋城が築き直されることになった。新城は文久3年(1863)から慶応3年(1867)まで、足掛け4年間で完成した。大規模な石垣こそは用いられてはいないが、高さ5mもの高い土塁をめぐらせた城郭であった。しかし、完成の翌年、明治維新となり城の長い歴史は終わることとなる。







 こちらは、幕末の慶応3年に完成した幕末の前橋城の図。『日本城郭体系』にあった山崎一氏の図を基に作成した。幕末の築城らしく、稜堡式城郭風の構造も見られる。現在、部分的に見られる土塁は、この幕末に完成した前橋城のものである。


 群馬県庁の展望台から城址を眺めてみた。城址は県庁などの公共施設にすっかり変貌している。公園にもなっているのだが、この公園化によっても、そうとう城域が改変されてしまっているようだ。

 現在、土塁の一部が明瞭に残っているが、しかし、城そのものの形態を把握するのは難しい状況である。













 県庁のすぐ北側の駐車場脇に残る土塁。高さ5mほどの巨大なもの。幅も基部では10mほどはあろう。県庁下の受付嬢に「城跡はどこですか」と聞いたら、よく知らないような顔をされたのであるが、すぐ目の前にこんな立派な土塁があった。

 土塁は何段かに屈曲していたようだが、幕末の築城にふさわしく、城塁の形状は、なんとなく稜堡式の城郭を思わせるものである。市街地化の中で土塁だけでもこうして残されているのがうれしい。この部分は本丸西側の土塁だと思う。

 土塁の脇にはやたらといろいろな碑が残されているが、城と直接関係がありそうなのはあまりない。










 土塁は北側で東西に折れて、そこに虎口の跡がある。ここがおそらく「子の門」跡であろうと思う。この東側の櫓台の上(写真正面先手)に前橋城址の碑が建っている。そこから本丸の東側の土塁が南に向かって延びていたと思われるが、写真の手前の部分までで切れてしまっている。その先は県庁の建物や駐車場となって失われてしまったのである。














 本丸の北側の三の丸の城塁。前橋公園の西側で、婦人会館の北側にあたる。基本的に前橋城は平城であるが、河岸段丘側はかなりの比高差があり、この土塁は塁下から10mほどの高さを誇っている。塁下にある水路や「さちの池」などがかつての水堀の名残なのかもしれない。

















 上記の土塁を下に降り、県道下の地下道を通って臨江閣の南下に出ると、わずかに水堀の名残が見られる。写真の池がそれらしいが、しかし、どうみても公園内のただの池である。この北側の臨江閣も高さ6,7mほどの段差の上にあり、この窪んだ部分が堀の跡だったとすると、堀の幅は40m以上はあったということになる。北側には前橋競馬場があり、この施設によってもかなり改変されていることだろうと思う。















 城の東側の外郭部に接続する丸馬出しからの虎口にあった車橋門の跡。大手町2丁目の交差点の南西100mの辺りの宅地の間にひっそりと残っている遺構である。わずか2段であるが、大きな切石によって土台が築かれている。ただし、この土台、写真で見て分かるように、幅が2m弱くらいしかない。これはもともと近くにあったものをこの地に移動させたもののようで、その時幅が狭いまま置かれたものらしい。というわけで、この遺構も旧状のままであるとはいえない。

 丸馬出しの痕跡が何かないかと近辺を歩いてみたが、それらしいものは認められなかった。









 前橋城は県庁所在地の中心部にあるだけあって、すっかり市街地の中に埋もれてしまっている。土塁の城は破壊するのも簡単であるし、石垣と違って、たいして立派な遺構にも見えず、保存の意識が働かなかったのであろう。幕末にやっと完成した城は、あっというまに破壊される運命に遭った。何のために築城したものであったか。薩長の攻撃よりも、開発の重機による攻撃の方が城により強いダメージを与えてしまうようである。


参考サイト 埋もれた古城

石倉城(前橋市石倉町下石倉)

 石倉城はこの辺りにあった。石倉城二ノ丸公園という公園が目印になる。

 *石倉城は現在ほとんどその遺構を留めていないため、どのような城であったのか分からない。仕方がないので『城郭体系』の図を基にして鳥瞰図を描いてみた。しかし、本当にこの通りであったのかどうか、現在では確認する由もない。

 城は前橋城を向かい合う利根川の川崖上に築かれたものである。川の流路に面しているために、半島状の地形がないため、やや河岸が出張っている部分を本丸として取立て、その周囲を囲繞するようにして郭を配置した城郭であったようである。

 しかし急造した向城がこれほどきちんとしたものであったのかどうかには疑問もある。





















 石倉城は武田信玄が厩橋城を攻めるために向城として築いた城である。信玄はこの城で厩橋城を抑圧しつつ箕輪城を攻めて落城させた。

 石倉城は利根川を挟んで、ちょうど前橋城の向側にある。県庁の対岸といった方が分かりやすいかもしれない。

 城址は、城址公園となっており、碑や案内板が建っているのだが、堀などは埋められてしまったのか、あるいは利根川に削られて崩落してしまったのか、遺構らしきものは特に見られない。

 この写真は城址にあった碑である。「石倉城址」ときたない字で書いてあり、「まるで子供の書きなぐりだなあ」と思ってよく見ると、書いた人の名も掘ってある。左下にある字は「福田赳夫」とある。おお、かつて総理も勤めたフクちゃんではないか! あの苦虫噛み潰したような顔が懐かしい。そういえば彼の選挙区は群馬であった・・・・・・。












 石倉城にあった鳥瞰図。臨時の陣城として築いた砦であるにもかかわらず、石垣に白亜の塀、2層櫓がいくつも立ち並んでいる。実際にこんな城があったと想像する人が何人いることであろう・・・・・・。
















総社城・勝山城(前橋市総社町植野)

 総社城は、総社町の遠見山古墳の北東側を中心とした辺りにあった。早い時期に開発が進んだようで、古い航空写真を見ても、堀などの形状を見ることができない。そこで、『城郭体系』の図を基にした想像図を描いてみた。

 本丸の全部と二ノ丸の半分ほどが、利根川に削られて崩落してしまっているというので、だいたいこのような配置であったものと考える。わずか1万石の大名の居城としては、規模が大きすぎるのが気になるところである。堀というのも、実際にはそれほど大規模なものではなかったのではないだろうか。






 左の写真が遠見山古墳。この高さ5mほどの前方後円墳は物見台として用いられていたようである。古墳の周囲にはなんとなく堀の痕跡のような窪みがある。しかし、利根川に削られてしまったのか、あるいは宅地化、耕地整理で埋められてしまったのか、明確な遺構は見つけられない。ただ、案内板はあちこちにあり、木戸跡や大手跡などの表示はある。


 慶長6年(1601)、総社に1万石で封ぜられた秋元長朝は、総社城を築いて蒼海城から移ってきた。しかし寛永年間には甲州に転封となり、城は廃されたという。














 勝山城は、総社城のすぐ北、勝山小学校の辺りにあった。「城郭体系」によると関口政次の城で、大半は利根川に崩落してしまったという。やはり遺構らしきものはよく分からない。





蒼海城(前橋市元総社町)

 蒼海(おうみ)城は、元総社町の御霊神社宮鍋神社の辺りにあった。この2つの神社の間辺りが本丸であったようである。

 これほどの城郭でありながら、遺構のほとんどは失われてしまっている。御霊神社にわずかに土塁らしきものが見られるほか、城のほとんどは湮滅状態である。そこで『城郭体系』の図を基にしたラフ図を掲示しておく。なお、東南側にある総社神社には、この城や上野国府に関する案内板が設置されている。

 南側の染屋川と北側の牛池沢城との間に、何重もの堀を廻らせるという複雑な形状をしていた。本丸周辺には沼があり、沼沢地に臨んだ要害である。ちなみに「蒼海」という名称は、この沼にちなんだものであると言われている。

 本丸と二ノ丸は方形の郭を重ねたような構造をしており、この形状から山崎一氏は「幻の上野国府を戦国城郭に編成したもの」という説を出している。


 蒼海城は、永享年間に、長尾景行によって築かれ、以後、総社長尾氏の本拠地となった。しかし、城としての使い勝手が悪かったのか、景行の子の忠房は、石倉城を築こうという計画を立てたほか、その後にこの地に入部することになる諏訪氏、秋元氏のいずれもこの城を利用しようとはしなかった。

 想像するに、縦横にめぐらされたこの堀は、環濠屋敷群を取り込むことによって成立したものであり、それぞれの堀の規模は小さく、防御力に富んだものではなかったのではなかろうか。だから秋元氏はこの城を利用せず、総社城を新たに築いたのではないかと思うのである。

 もう1つ想像されるのは、2つの川に挟まれた平城という位置取りは、洪水の被害を容易に受けてしまうのではないかということ。たびたび水害に見舞われるような城では、居城とするのに嫌気がさしてしまうのではないか。


















































大竹屋旅館

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