烏山城(烏山町城山)

 04.4.24(土)、ヤブレンジャー隊の烏山城&武茂城ツアーでこの地にやってきた。時まさに新緑が息づいてくる季節で、パステルの心地よい色彩の中、例によってヤブレンジャーしてしまったのであった。

 烏山城は戦国期、この地方の一大勢力であった那須氏の本城であった。しかし、那須氏は小田原の役の折、秀吉の元に参上しなかったために改易の憂き目を見ることとなる。とはいえ、この城はその後も使用され続け、成田氏、織田氏、松下氏、堀氏、板倉氏、永井氏、稲垣氏、大久保氏などとめまぐるしく城主は変わり、明治維新を迎えることになった。

 登城口はあちこちに案内板が出ているので、どこからでも登ることができるであろう。北の十二曲(東江神社のある所)方面、中央の七曲り(亀山神社の脇から)、南の筑紫山と、3つの登城道がある。格別な整備は施されていないが、遺構はそっくり山林の中に埋もれている。というわけで、ざっと歩いて図を描くことができたのであるが、なにしろ一度歩いただけなので細かいところでうまく把握できていない部分があり、かなりいい加減である。この城については「正保城絵図」が残っているので、それを元にして建物が復元できる所は再現してみた。「侍屋敷」等の名称もそれに基づくものである。しかしこの絵図と現況とでは地形などが一部違っているし、現地案内板と郭の名称など異なっている部分も少なくない。そこで、現地案内板などにあった名称は青い字で書いておくことにした。

 山頂に城の中心となるのは、本丸(1郭)と古本丸(2郭)の2つの郭である。いずれも長軸50mあまりの郭であり、現状から一見するとどちらが優位の郭であるのかはっきりしない。しかし「正保城絵図」では、1郭に御殿を描いているのに対し、2郭には何も描いていない。2郭との間の土塀にも門を置いていない。近世段階では山上の郭は部分的な使用に留まっていたのであろう。「侍屋敷」とある部分も、実際に侍が常駐していたかどうかは怪しいものである。

 郭はさらに北に3郭、4郭と続いている。こうした構造からすると、もともとこの城は単純な直線連郭式の城郭から発展してきたもののように思える。これらの郭群の防備として、西側には横堀が置かれている。この横堀はきわめて大規模なもので、深さは8mほどであるが、その幅は20m以上ある。よくぞここまで掘ったというもので、烏山城の見所の1つであるといっていいだろう。この横堀の西下は5mほどの高さの切岸となり、その下に2段の腰曲輪が配されている。しかし、古本丸の西下はさらに厳重であり、横堀が2段になっている所がある。さらに6の郭から西側には3条の堀切が認められる。こういうことからすると、2郭が戦国期の本丸であったというのが構造的になんとなく理解できるようでもある。

 大手方向と思われる七曲りから登ってくると、途中にも切通しの、虎口らしき所がある。そこを通過して上っていくと、太鼓丸の塁下に出る。太鼓丸の北側に堀切があり、ここに車橋が架かっていたという事である。太鼓丸と言う名称は、実際に太鼓台を置いていたことに由来するのであろうが、この郭内には浅い切通しのような微妙な窪みが見られ、もしかすると、本来の登城道はこの郭の内部を通過するようになっていたのかもしれない。車橋を渡ると細い尾根上るようになっており、上がった先に吹貫門がある。古図を見るとこの辺りには土塀がめぐらされていた。この吹貫門の所で敵を食い止めることを意識していたのであった。そのためこの辺りには石垣が用いられている。上の常磐曲輪の塁上から攻撃するという発想だったであろう。常磐曲輪の城塁をしっかりと造成しようという意図は、この塁の上の方に鉢巻石垣があることでも分かる。

 一方、十二曲りからの登城道の途中には何段にも郭が配置されている。山下近くまで郭を段々に配置すると言う発想は、ある時期、こちら側を大手道として意識していたゆえであるとも思われ、「古い大手道はこちら側ではないか」という話題が現地で出たのも、そうした構造によるところのものである。

 しかし、実際には登城道はさらに複数あったであろう。8の郭の東側下には何段かにクランクした虎口状の遺構がある。これは東南側からの登城道の名残ではないかと考えられる。また5の郭の西側下、7の郭の西側にも登城ルートがあったと思われる。

東側の麓(国道294号線旧道)側から見た烏山城。比高120mほどである。正面に見える水田は水堀の跡のようにも見える。 大手口から入っていくと、すぐに亀山神社の側の石垣が見えてくる。近世には山上はあまり使われなかったであろうから、神社とその周辺に役所などが置かれていたのであろう。ところでこの神社の境内には「佐渡柄杓 枕返し」という案内があったのだが、これはどういう伝説なのであろうか。佐渡出身なのでそんなことが気になってしまうのである。
車橋の跡。ここを上っていくと石垣のある吹貫門の所に出る。 石垣。この部分だけはなぜか妙にはっきりと残っている。積み直したりしているのであろうか。その他の部分は崩れている所が多いようだ。
本丸虎口脇の石垣。 本丸から西側下の横堀を見る。深さは8mほどだが、幅は20m以上もある雄大なものである。
本丸と二の丸(旧本丸)との間の堀切。堀底の西側下には数段の段がある。 本丸城塁の上でお絵描きをするウモレンジャー隊員。右側の下が塩倉の跡である。あちこち草が生い茂っているが、歩けないほどではない。
本丸西側下の横堀の内部から本丸城塁を見た所。杉が生えている所は下草も少ないので歩きやすい。 同じく西下横堀の内部を見た所。右側が本丸。外側の土塁も高さ5mほどはある。
本丸と二の丸の間の横堀を下から見た所。何段かの壇があるのだが、側面から見ると畝堀のようにも見える場面である。 同じく本丸と二の丸の間の堀切。間に人が立っているとその規模がよく分かる。
4の郭の土塁。高さ2mほどで、郭の西側に配置されている。この辺りで図面描きをしていると、「ブワッ」という音とともにいきなり2台のバイクが飛び出してきた。モトクロスをやっている人たちのようであるが、こういう普通に人が歩く道をバイクで飛ばすのはやめてほしいものだ。 4の郭の西側下の横堀。4の郭からの深さは6mほど。
4の郭と5の郭との間には二重の横堀がある。これはその外側の部分。深さ6mほどである。この堀の途中には土塁が横たわっている。その東上の部分と合わせて、複雑な虎口を形成していたようだ。 5の郭の外側の横堀。深さ2m、幅3mほどのきわめて小規模なものである。その外側も切岸ではなく、自然地形であった。
6の郭との間にある横堀。深さ6mほど。 左側の横堀の外側下にはもう一段の横堀がある。幅4mほどのものであるが、塁上からその横堀を撮影するウモレンジャー隊員。外側の城塁の高さは5mほど。
7の郭の先にも堀切が3本ほどある。深さ5mほどと、どれもそこそこの規模を誇っている。 厩の外側にある土塁。といっても草ぼうぼうでよく見えないが、高さ2m、上端幅が3mほどあり、さすがに近世にも使用された城郭らしく大規模なものである。
十二曲がり方向に降りる道。中世の烏山城はこちらが大手道だったのでは?といった話題が弾んだ。10数年前にこの城を訪れた時にはこちら側から登ってきたのであった。なんだか懐かしい。 筑紫山に続く道との間にある堀切。深さ4mほど。右側が太鼓丸の城塁である。
(以前の記述)烏山城は有名な城なのに、あまり整備されていない。それというのも城址が比高120mほどと、結構高い山の中にあるからであろう。しかも、市街地からもわりあい離れているので城址公園にする計画もないのだろう。

 城址には古本丸、本丸が残り、石垣などがあちこちに見られる。また、中城、北城、武器庫跡等、遺構は良好に残されている。

 烏山城が最初に築かれたのは応永25年(1418)のことであるという。それ以降、那須一族の本拠地の城として栄えた。しかし、秀吉の小田原攻めの際、那須資晴は、参陣が遅れたとの理由で、那須8万石を改易となってしまう。同じ一族の大田原氏や、大関氏らとは、対照的な結果である。それ以降、烏山城には、武蔵の成田氏、三河の松下氏、それに堀氏や板倉、永井、稲垣、大久保など城主はめまぐるしく変わった。変わったところでは、織田信雄が尾張美濃170万石から、烏山2万石に左遷されたこともある。

 関東地方では珍しい石垣は、近世に入ってから築かれたものであろう。


*関連サイト  日本を歩きつくそう!  兵どもの夢





















大竹屋旅館

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