唐沢山城(佐野市富士町唐沢山)

 唐沢山城は、佐野市と田沼町にまたがる標高247mの唐沢山に展開しており、県立自然公園となり、多くの人が訪れる場所である。当地の豪族佐野氏が築いた城であり、時代と共に拡張・改造されてきた、天嶮の要害である。

 鳥瞰図は南側上空から見たものである。唐沢山城の最大の特徴は、関東地方には珍しい本格的な石垣を用いていることである。本丸唐沢山神社周辺の石垣は特に高く、10m近く積まれている所もある。こうした高石垣を積む技術はもともと関東地方にはなく、天正18年の小田原役以降に、豊臣系の大名として佐野氏が生き残った後に関西の石工らの協力を得て築いたものであろうと言われている。しかし、城が廃城になってから神社の建設に伴って築かれたものもあると思われ、一概にすべてが天正期の石垣と見るのは早計に当たるかも知れない。石垣の材料となった石をどこから運んできたのかが気になる所であるが、天狗岩や鏡岩のような巨岩があるところから想像するに、この山の内部は岩山であり、あちこち掘ればかなりの石材を取り出すことができたに違いない。金山城のように切り出した跡を見つけることはできなかったが、この山自体から相当量の石材が産出されたものと思われる。

 この石垣の部分を除けば、城の全体構造は中世の山城の面影をよく残している。山頂や尾根上を削平して郭を造りだし、それぞれの郭との間には荒削りの堀切を置いている。堀切の先は斜面に落ち込んでおのずと竪堀を成している。こうした典型的な山城構造はもともとの唐沢山城の縄張りを想像させてくれるが、しかし大手方面の石垣による枡形などを見ると、これはやはり豊臣大名として生き残った佐野氏の居城であったのだという思いがあふれてくる。


 西側の登城道近くから見た唐沢山。この山の尾根はあちこちに長く展開しているので、図に描いた部分以外にも、さがせばあちこちの尾根に遺構を発見できそうだ。

















 大手口方面の枡形。きれい石垣で形成されている。ここに門があったものだと思われるが、枡形にしては内部の空間がとても狭いのが気になる。石垣上には塀などもあったと思うのだが、それらはどういう構造物であったのであろうか。

 この枡形の手前にレストハウスがあるのだが、ここで食べた盛りそばがとてもおいしかった。このレストハウスは眺望もよく、なかなかよろしい。













 上の枡形を入ったところの内部様子。幅は5mほどしかなく、ここに第2の門を置くにはちょっと狭すぎるようだ。突き当たって左に曲がる辺りに何かの構造物を置いていたのであろう。正面は天狗岩で、こちらがわでは天然のこの岩が、石垣代わりの障壁となっている。















 (う)の堀切には現在、石の橋が架けられているが、その手前にある大炊の井戸。写真のように現在も水が湛えられている。金山城などでもそうだが、こんな高い山の山頂近くに湧水点があるというのが不思議だ・・・・。まさに自然の神秘ってやつである。

















 石橋のところから(う)の堀切を見た所である。この部分は堀の長さが長いので、堀切というより横堀のようにも見える。堀の幅は7mほど。右側が3の丸の城塁であるが、塁上からの高さは6mほど。左側には避来石山に続く道があるが、その道の土手からの深さは2mほどである。















 石橋の所から、南城の神社社務所へ続く道は、桜馬場と呼ばれている。といっても幅は4,5mほどであり、実際に馬を走らせるにしては狭いようであるが、実際はどうであったものだろうか。

 その途中に写真の竪堀がある。箱型にきれいに整形されている。















 引局から本丸唐沢山神社方面を見た所である。南城方面からだと、本丸に至るまでに三段構造の石垣を越えていかなければならない。
















 本丸の石垣は南側では7,8mほどの高石垣になっているが、北や西方向では城塁の上部1、2mほど積まれているだけである。写真は北側部分を覗き込んだもので、石垣の下にはわずかに犬走り(構造上どうしても生じてしまうものであろう)、その下が切岸という構造になっている。















 本丸の北側下にも井戸がある。こちらは車井戸と呼ばれているものであるが、蓋がしてあるので、生きている井戸なのがどうかは分からない。それにしても、岩山というのは意外にも水がよく湧き出てくるものなのらしい。
















 本丸・武者溜から北の城の尾根方向には何重にも堀切が掘られているのだが、この方向には自動車を通すための道が造られているので、大分改変されてしまっている。写真は本丸と長門丸との間にある堀切の名残である。おそらくかつてはこの上が登城道で、木橋が架けられていたものと思われるが、現在は車道のために大変削られてしまっている。














 ここから北側遺構を確認しに北に向かった。

 長門丸と金の丸とのあいだの堀切(か)。ここも車道のために半分削られている。旧状を想像してみると、深さ4m、幅6mほどのものであったろうか。それほど深いものではなかったようである。
















 金の丸と杉曲輪(青年の家があるところ)の間にある堀切。深さ3m、幅5mほどである。これほどの大城郭にしては、堀切の規模がたいして大きくないというのが、1つの特徴である。

 堀切の間に、ちょうど溝を埋めるように運送車が一台捨てられている。ちょうど車を置くのに適当なスペースだったのだろうが、こんな所に車を捨てちゃあだめでしょうが・・・。















 キャンプ場と北城との間には二重の堀切があったらしい。しかし、これも車道のためにつぶされてしまったと思われる。写真はキャンプ場にあがる車道から南側の北城の城塁を見た所であるが、二重の堀切は痕跡もない。キャンプ場にあがる道は斜めにならされているが、間にある写真の窪んだ空間は幅10m以上ある。この間に二重堀切があったのだと思われる。

 キャンプ場のあるところは北側尾根のピークの部分であるが、この辺りまでくると、郭の削平が甘く、城塁も切岸にはなっていない。実質的な城域はこの二重堀のところまでだったのであろう。











 キャンプ場のさらに先にある(こ)の堀切。深さ2m、幅4mほどで、もはや気休め程度のものである。この程度の堀切は城域外にもあちこちの尾根に切られていた可能性がある。
















 北側遺構を確認して本丸下まで戻ってきた。

 本丸北西側の城塁を下から見てみた。上の1mほどの部分だけが石垣構造になっているのが分かるであろう。本丸には土塁の代わりに高さ1m余りの石垣を北西部に巡らせており、その高さの部分だけ、外側も石垣となっているのであろう。

















 本丸北側下の武者溜りにある土塁。高さ1mほどであるが、外側にはこのようにきれいに土塁が巡らされている。幅が狭いところでは横堀のようにも見える。こちらの方向から本丸に到達するためには本丸城塁の下をぐるりと回りながら、2の丸の枡形を通っていかなければならない。

 この武者溜りから本丸城塁の高さは8mほどである。













 武者溜りから2の丸に行くところにある枡形。石垣によって形成されており、大手口方面にあったものとほぼ同じ構造である。規模も似ている。ここを出て右側が2の丸。左側の道を上ると本丸となっている。


















 (さ)の辺りから見る本丸城塁。この辺りが最も高い部分である。確かに織豊期の石垣という感じがする。乱雑に積んであるように見えるが、400年間の風雪に耐えてきたところからすると、かなり堅固なものなのだろう。















 (さ)の辺りから2の丸への虎口方面を見た所。正面の二の丸入口の所には門があったはずである。

















 本丸と引局の間辺りの石垣であるが、この辺りは少し崩れている。高低差のある石垣が組み合わされる接合部分が構造的に少し弱くなるのであろう。
















 続いて南側の尾根を確認しにいく。社務所のある南城の先端部下には堀切(お)がある。写真は北側から撮影したもので、右側が南城の城塁であり、高さは5mほどである。左側がそのさらに南側の郭で、堀切の深さはこの方向では2m、幅は6mほどである。

 ここから先には2段の腰曲輪があるが、その先は薮で確認できそうもない。
















 2の丸から3の丸に降りていく道である。3の丸はU字型の郭であり、その外側に横堀を持っている。二の丸城塁も、上端の1mほどのみが石垣となっている。















 これがその横堀(え)。幅が6mほどあり、腰曲輪といったほうがよいかもしれない。外側に1m未満の土塁を巡らせている。その下が堀切(う)である。
















 避来石山にある根古屋神社を下から見てみた。神社のある郭の下には合計4段の腰曲輪がある。この部分は、大手枡形や蔵屋敷辺りの敵を上から狙撃するための施設であったであろう。もともと緩やかな山の斜面を削ったために数段の腰曲輪ができたものであると思う。腰曲輪のスペースは「組屋敷」と呼ばれている。この辺りには役人の居所が置かれていたということであろうか。
















 根古屋神社の下の郭から、下側の大炊井戸方向を見た所である。ここから3段の腰曲輪がある。

















 天狗岩から見た東京方面。天気のよい日には超高層ビルも見えるという。それくらいの眺望があるわけだから、江戸の大火なども見ることができたことであろう。ただしそのことが直接、唐沢城廃城命令につながったかどうかは分からない。
















 大手口方向にある鏡岩。上杉謙信が攻め寄せてきた際に岩が鏡のように輝いて敵の目をくらませたという。しかし、見ての通りの岩山で、鏡のようになって光を反射することは実際はないだろう。
















 唐沢山城を最初に築いたのは藤原秀郷であるという。しかし、これは伝説に過ぎず、実際の所どうであったかは分からない。ただ、現在本丸に祭られている唐沢山神社の祭神は藤原秀郷である。
 秀郷の子孫は佐野氏を名乗り、代々この城を居城としていくことになる。唐沢山城が特に著名なのは、上杉謙信との間の攻城戦に関してであろう。上杉方についたり、北条方についたりする佐野昌綱に対し、上杉謙信は何度かこの城を攻撃している。永禄年間のことである。

 その後、佐野氏は織豊期を生き抜き、近世大名として残った。しかし、慶長7年(1602)、徳川家康の命により、唐沢山城は廃城となり、佐野氏は春日岡の地に新城を築いて移っていくことになる。唐沢山廃城の理由として、一説によると、江戸での大火をこの城から見た佐野信吉が江戸まで駆けつけたのを知った家康が、「江戸城を俯瞰できる山城はけしからん」といって城を捨てることを命じたという。しかし、実際の所は、石垣まで用い、堅固な山城である唐沢山城が関東地方に、しかも外様大名の城として存在し続けているのは、江戸城の防衛上、好ましいことではなかったからであろう。家康がそのことを強く認識したきっかけとして前期の「江戸の大火」に類似したような話があったとしたら、前記の大火による廃城理由も間接的には当たっているということになろう。

*参考サイト 埋もれた古城





















大竹屋旅館

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