岩殿山城(大月市賑岡町岩殿山)

 JRの大月駅のすぐ目の前に、迫りくるかのようにそびえている巨大な岩山がある。これが岩殿山城の跡である。この駅を通るたびに気になっていたのであるが、今回、ここを訪れる機会を得たので、ざっと紹介してみる。それにしても、このような一枚岩でできたような山に造られた城など、全国的に見ても珍しいのではないだろうか。

 この山には平安時代に寺院が造られ、修験道の行者コースとしてもともと整備されていたらしい。今もこの山のあちこちを歩くと、まさに修験道コースといっても良さそうな岩山道が随所に見かけられる。
 戦国期になると、ここに城郭が構築されるようになる。武田氏に属した小山田氏の城郭である。小山田氏は武田24将の一人として、この地域で勢力を張っていたが、天正10年(1582)、武田氏もついに滅亡の時を迎える。来たる織田との決戦を前にして、真田昌幸は武田勝頼にこう言った。「わが砥石城は難攻不落の要害、いざというときには、砥石城にお越しください」と。しかし小山田信茂は、「真田は当家に仕えてまだ2代、うっかり信用するのはいかがなものでしょう。いざというときにはこの小山田の岩殿山城にお越しになるのがもっともでござる」云々と言ったという。

 そこで、勝頼は小山田氏を頼むこととした。ところが、信長が攻めてきたときに、この小山田氏も結局は勝頼を裏切ってしまうのである。行き場のなくなった勝頼は、わずかな供回りと共に天目山で自害してしまう。

 小山田氏は織田家に帰順しようとしたが、主君を追い払った小山田信茂を信長が許すことはなかった。信茂は捕らえられ、首を斬られてしまう。信長にしてみれば、体勢が決まった後に帰順してくる者をいちいち迎えていたのでは、論功行賞で部下に与える土地が十分に確保できなくなってしまう。途中から勝頼を裏切った者は不忠者として成敗してしまったほうが面倒がなくていい、と思ったのであろう。小山田氏もどうせ殺されるなら最後に主君裏切りの汚名を着ることよりも、潔く武田と運命を共にしてしまえばよかったのに、と思うのは現代の我々の考えである。たくさんの一族郎党を抱えていた小山田氏としては、どうすれば一族や郎党が生き延びられるのか、必死で考えた上でのことであったのであろう。

 主人を殺された一族は天険の要害、岩殿山城にこもったが、すでに体勢は決していた。織田の大軍に囲まれた城兵は抵抗するのが無理なことを悟り、尾根道をたどって落ちていった。その途中、岩肌がきびしくむき出しになっていったところで、女たちはもはや子供を連れていけないと悟り、崖から子供を突き落として死なせたという。この場所が通称「稚児落とし」と呼ばれているところである。こちらの方にも行ってみたのであるが、いやもう、すごい岸壁であった。高所恐怖症の人はこのハイキングコースを進むことはできないであろう。

















 大月駅から見た岩殿山。一枚岩が迫って見えるが、この上が自然の展望台になっていて、眺望はとてもよい。しかし、下を見ると・・・・・・かなり怖い。うっかり身を乗り出して滑りでもしたら大変だ。

 駅から北側に出て川を渡り、坂を上るとすぐに「岩殿城登り口」の案内が見えてくる。あちこちに案内があるので迷うことはない。

(この山自体にも「岩殿山城」という看板がついている。ライトがあるので、夜はライトアップしてこの看板を照らしているらしい。















 坂道を10分ほど登ると、方30mほどの平坦地に出る。麓近くの平坦地といった感じで、かつてはここに居住用の建物が建っていたのかもしれない。ここは現在「円山公園」と呼ばれている。

 写真のようにそれらしい雰囲気のある門をくぐり抜けると、模擬天守が見えてくる。また、平坦地の先には円墳のような比高6mほどの櫓台がある。















 これが模擬天守。内部は無料の資料館などになっている。(有料のプラネタリウムもある) 模擬天守は土壇の上に建っているのだが、この土壇はもともとあったものなのか、それとも天守を造る際に新しく盛ったものなのか、よく分からない。先の円墳風櫓台も後世のものなのかもしれない。

 この脇から、いよいよ、岩に沿って斜面を登っていくことになる。
















 登城道の途中から上の岩盤を見てみた。これはすごい! どんな忍者でも登るのは難しかろう。ましてや鎧武者など絶対に無理である。よくこんな山があったものである。

 この岩盤の上には手すりが付いていて、崖っぷち近くまでいって、眺望を楽しむこともできる。
















 登っていくと「揚城戸跡」に到着する。いよいよここからが城内である。両側が岩盤の部分に門を置き、左右に広げるスペースはないので、この門は上から縄で引っ張り上げる構造をしていたらしい。確かにここに門を置かれたら、城内に進入するのはとても困難である。ただ、横矢掛等がないので、外側にいる敵を攻撃するのも難しいかもしれない。

















 揚げ木戸を抜けると、番所跡がある。門を見張るための番所が置かれていたのであろう。「番所」とあるが、写真の出っ張りは人工的に盛られたようにも見え、この先に兵を並べて、門の外の敵を狙撃できるようにしていたのかもしれない。

 この右手を上がっていくと、やや切り通しの平虎口がなり、そこから郭内に入っていく。

 山頂にはあまり広いスペースはなく、尾根道を作平した細い郭が続いている。この郭を進むと乃木大将の詩碑のある見晴らしのよい展望台風のところに出る。この辺りが3の丸になるのであろうか。














 崖っぷちから下を見てみた。怖いぞ〜! 地獄の底に吸い込まれていきそうな気分になる。

 下には先ほどの円山公園の模擬天守も見える。そのさらに下には川が蛇行しているのが見えるが、この川の崖も高さ30mほどはあり、かなりの要害である。














 同じ場所から西の方向を見てみた。晴れていればここから富士山がよく見えるらしい。今日もそれを楽しみにしてきたというのに、残念ながら曇っていて富士山を見ることはできなかったこの後晴れてくると、富士山の裾の方が部分的に見えたりしたのであるが、全体像を見ることはとうとうできなかった。残念!














 3の丸の下が馬場跡である。しかし、本当にこれは馬場跡なのであろうか。こんな山の上に馬をつれてくる必要性は全く感じられない。馬小屋は山の下に置くべきではなかろうか。ただでさえ、山上には兵を篭めるスペースが足りないのに、馬なんか置いていたら、狭くてどうにもならない。ここに馬場があったというのは、かなり怪しいのではないかと思う。手前にあった「馬小屋」ともども、なんとも信用できないのである。

 ここが城内で最も広い郭で、長さ50m、幅15mほどはある。しかし、この部分をすべて居住用に使用したとしても、この城の郭はみな狭い。これではたいして兵を置くことはできないだろう。郭のペースからすると、小規模な砦とたいして変わらない。
 













 一緒に来た仲間が、見晴台辺りでのんびりしているので、彼らをおいて一人で本丸方向にきてみた。

 馬場から東に進んでいくと、6mほど高く、倉庫跡がある。ここが2の丸になるのであろうか。6m×10mほどの郭である。郭と言えるような広さではない。

 そこからさらに8mほどあがっていくとそこが城内最高所で本丸と言うことになる。8m×20mほどの郭である。やはり狭く、居住性のある建物を置くのも困難であろう。本丸はパラボラアンテナ基地となっていた。また、西側の方には高さ1,5mほどの塚がある。ここには「烽火台」の標柱が建っていた。

 この北側の下には「竪堀」「枡堀」があるらしいのだが、どこにあるのかよくわからなかった。この山は独立した山で、どちらの斜面も急峻である。岩盤で急斜面な所に、竪堀は必要ないと思うのであるが、どのような形状のものであったのであろう。















 本丸の東にさらに進むと、一段下に堀切がある。こちらは搦め手口になるのであろうか。中央に土橋を残して、両脇を竪堀のように削り落としている。本丸から堀底までの深さは6mほど、幅は5mほどある。















 上の堀切を越えてさらに進むともう1本の堀切が見えた。先ほどのよりも規模は小さく、幅5m、深さ3mほどである。

 この先にも進んでみたが、道は次第に下に降っていくだけのようである。ここを降りきったところに円通寺があるらしい。















 1本目の堀切の所まで戻ってみると、仲間が追いついてきていた。1本目の堀切の底から、本丸塁上の仲間たちを見たところである。
















 馬場の南側の10mほど下がった窪みのところに井戸がある。このような岩の塊の山の上に湧き水が出るというのは驚異的なことであるが、水が確保できなくては篭城もできないであろう。水の確保は山城を運営する際にもっとも問題となるところである。

 井戸は2つある。写真右側が「亀ヶ池」と呼ばれ飲料用で、左側のものが、「馬洗い池」と呼ばれ、文字通り馬を洗っていたものだという。ということはやはりここまで馬を連れてきていたのか・・・・・・。どうも納得できん。

 井戸には現在もきれいな水がたたえられている。そのまま飲めそうな水である。












 郭のもっとも西端にはかつて高さ8mもある巨大な岩盤があった。これが、西物見台として使用されていたとも言う。

 この岩盤には亀裂が入り、いつ崩れるか分からないという危険な状況になったので、ダイナマイトで爆破して落としたのだという。その跡が写真の踊り場のような部分である。ここまで降りてみたが、やはり怖いー。こんな危険な場所がこの城には多い。

















 城を降り、大手門方向に行く。次の天神山との間の沢の底が堀切状になり、そこが、大手門の跡らしい。(築坂と言われている部分である)
 わがグループはそこからさらに西にずっと進み、「稚児落とし」に向う。この道はアップダウンが激しく険しい道で、途中で岩盤をよじ登ったりと、かなり厳しいものである。

 写真の部分は、岩盤の途中にある道である。上も崖、下も崖、間の幅20cmほどの狭いところを通って先に進むのである。その先は右側の岩盤をよじ登るようになっている。

 かつて城を落ちたという女子供たちもこんな危険な道を通っていったのであろうか。























 途中の天神山辺り(兜岩の辺だったかな)から見た岩殿山城。こうしてみると周囲すべてが切り立った独立山であるというのがよく分かる。駅方向の正面から見ると、団子のようにどてっとした山のように見えるのであるが、こうして横から見ると、細長く延びている山であるということが分かる。まるで張りぼてみたいである。(>_<)

 この写真ではよく分からないが、四月末の新緑がパステル調の淡い色となって山を取り囲んでいる。
















 城から歩くこと1時間。ついに稚児落としに着いた。うーん、これはすごい!写真ではそのすごさは伝わらないと思うが、岩殿山城の岩盤以上に巨大な岩盤である。岩盤の高さは100m以上あるであろう。ここから本当に子供を投げ落としたのであろうか。あなおそろしや・・・・・・。ここでは転落死亡事故も起こっている。落ちたら絶対に助からないであろう。

 lここから正面の岩盤の頂上部に向かう。












 稚児落としの頂上部でくつろぐわれらがグループ。真下は深さ100m以上の谷底である。よくこんなところでくつろげるものである。ここまで来るのにかなり疲労してしまった。一休みして、後はさあ降りていこう! 道は所々滑りやすくなっているので、雨上がりや冬などにこの道を通るのはやめておいた方がよさそうである。

 正面奥に見えるのが岩殿山。あそこから岩盤を伝ってここまで来たのである。









 というように、岩殿山城から稚児落しまで、ざーっと歩いてきた。気候がよく、新緑の息吹が心に染み入るようであったが、やはりかなり疲れた。ハイキングシーズンということもあって、これから帰りの中央線は通勤ラッシュ並みの大混雑となる。おまけに人身事故があったらしく、電車が途中でストップするというアクシデントもあった。明日は筋肉痛になっていることであろう・・・・・・・・。




 





















大竹屋旅館

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