足利市

*参考サイト 日本を歩きつくそう

足利館(栃木県足利市)

 足利氏の居館は現在、鑁阿寺(ばんなじ)の境内となっている。方200m弱の単郭の居館で、現在でも周囲には幅4mほどの堀と土塁が残っている。足利氏がこの地方で影響力を持ち始めるのは平安時代の末期頃からで、この館の原型もその頃には出来あがっていたのではないかと想像される。一般に武士の方形館というと100m四方程度のものを連想することが多いが、ここは200mほどとかなり大きい。それはそのまま足利氏の勢力を反映しているものではないかと思われる。

 というような具合で、ここはあくまでも平素の居館であった。詰の城としては、北1.5kmほどの所にある両崖山に山城があった。

 足利氏が将軍となり京都に移った跡も、この地は鑁阿寺として、厚く保護されていたと思われる。鑁阿寺は開祖800年といっているので、鎌倉時代の初期にはすでに館の敷地内に建立されていたものであるらしい。鑁阿寺には重要文化財クラスの遺構がたくさん残っているが、ここは無料開放されており、市民の憩いの場となっている。まったく太っ腹である。

 ここを訪れる際には車を止める場所に苦労してしまうが、東側の国道293号線の脇(国道を挟んでちょうど足利学校と向かい合っている辺り)に市営の無料駐車場があり、ここに車を置いて、あちこち散策してみるのがよいであろう。
  





 こちらはすぐ東南の脇にある、足利学校。足利学校は近年よく整備されていて、中世の居館的な風情をかもし出している。堀や土塁がきれいに復元されている。普段、巡っている館跡は、堀も埋まり薮だらけになっているものが多いのだが、本来はこんな感じだったのかなという想像力をかきたてられる場所でもある。

 足利学校の創設については諸説があるが、確実に史料上から確認できるのは、室町時代に上杉憲実が書籍を寄進し、座主制度を設けて学校を中興した辺りからである。

 天文年間には「学徒三千」と言われ、フランシスコ・ザビエルに「日本国中で最も大にして最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されるようになる。しかし、江戸時代以降はしだいに衰退していき、明治5年には学校は廃止されている。

 校地は学校の敷地などになっていたが、平成2年以降「史跡足利学校跡保存整備事業が」進められ、現在では旧態を復元した姿を見ることができるようになっている。







 歩道橋の上から見た所。まるで箱庭のようだ。しかし、方形館の雰囲気がよく出ている。100m四方ほどの敷地内には、孔子廟、方丈、庫裏、衆寮、書院などが配置されている。
 















 写真の建物の左側が方丈、右側が庫裏である。藁葺きのかなり大きな建物である。昔の武士の館の建物も、このような感じであったのかもしれない。手前は庭の築山で、庭園も復元されている。この方丈で、学校の講義や各種の行事が行われていた。














岩井山城(勧農城・足利市岩井町)

 岩井山城は勧農城ともいい、渡良瀬川に臨む比高25mほどの台地上にある。渡良瀬川は岩井山城の手前で南に湾曲し、城山を取り巻くようにカーブしている。その部分の先端部が城山である。城山の北側方向にも湿地帯が入り組み、かつての川はこちら側にも流れていたかもしれない。つまり川の中州に存在した独立丘であった可能性がある。鳥瞰図は東南上空から見たものである。一応ざっと歩いてみたのだが、郭の形態が十分に把握できておらず、かなり違っているかもしれない。一応のイメージ図といった程度のものである。

 城内は笹が密生しているので、形態形態把握が困難であるが、、南北に長い最頂部の郭が1郭であると思われる。この郭の南側には腰曲輪が2段続いているが、この城塁に横矢構造が見られるところがある。また、東側の城塁からかつて石垣が発見されて話題になっている。しかし、これは石垣と呼べるほどの規模のものではないようだ。北東隅にやや盛り上がったところがあるが、これが解説版にあった物見台ということなのであろうか。また北側は尾根のような細い郭が延びている。ここに(う)の金毘羅の大きな碑が建っている。

 東側の下にテラス上の空間があり、ここに赤木神社と乳房地蔵尊がある。この辺りまでが城の中心ということになろう。しかし、堀切や土塁などの明確な遺構はなく、城としてはかなり古い形式のものである。1郭やその周辺の郭も、作平が甘く、地勢が斜めになっている所が多い。

 城は文正元年(1466)、足利長尾氏の初代である景人が足利庄の代官となり、ここに築いたものであるという。確かに構造的にその頃のものであろうかと思われる。少なくとも戦国末期までには城はその機能を失っていたであろう。



 北側の岩井橋の手前から見た岩井山城。目立つ山なので場所はすぐ分かる。橋が架かっている部分は渡良瀬川の氾濫原であるが、かつてはここにも川が流れ込んでいたかもしれない。

















 城の入口脇には壊れかけた宝篋印塔が2基、草むらの中にたたずんでいる。城主であった長尾氏に関連したものか。

















 (あ)の部分の城塁。横矢のように張り出した部分である。しかし、高さは1m余りで、塁も切岸状にはなっていない。

















 (い)の腰曲輪。しかし一段低く草が茂っているので、まるで堀のように見える。もしかすると本当に堀なのか? しかし薮がひどくて形状を確認することができない。
















 1郭の東側城塁には青いビニールシートが被せられている。石垣が出たというのはここにことなのであろうか。しかしびっしりシートが被っていてよく分からない。しかし、その脇にも石ころが数個並んでいる所がある。これがその石垣の一部なのか。しかし、これは石垣というよりは崩落防止のための石留めであるようにみえる。















 1郭城塁を東側の下から見た所である。写真では分からないがかなりの急斜面となっている。
















 1郭東下の郭にある乳房地蔵。変った名前の地蔵様である。


















 こちらはその北側にある赤城神社。
















川島氏館(高松城・足利市高松字堀ノ内)

*『栃木県の中世城館跡』(東洋書林)を基にしてラフを描いてみた。

 川島氏館は、高松にあるので高松城とも呼ばれ、観音寺の東南150mほどの所にある。観音寺の東南側は幅20mほどの低地になっているが、これも外堀の名残であるらしい。さらに進むと道が二股に分かれているところ(石造供養搭がある所である)の手前の左側の壁に「←居館跡」という案内が見えてくる。しかし小さいので注意してみないと見落としてしまいそうだ。

 矢印に沿って進んでいくと一見の民家があり、その脇に「居館跡」という標柱と案内板がある。ここが虎口であるらしい。















 標柱に脇の両側には堀と土塁の跡がある。堀は深さ1mほどでかなり浅くなってしまっているが、もともとは水堀であったものだろう。郭内側には2mほどの高さの土塁がある。基本的には方90mほどの方形の居館であったようだが、東北の角が少し欠けているようで、これは鬼門除けなのかもしれない。また北西角には古墳があったようで、これを「城郭体系」では隅櫓跡としている。

 案内板によると、館林領主赤井山城守が、上野国中野を領して、永禄年間にこの地を居館としたという。しかし実際にここの領主となったのは赤井氏の家臣の川島氏であろう。現在も館内は川島氏のお宅となっているようである。













渋垂館(足利市渋垂)

 渋垂館は、勝光寺の南西100mほどの所にある。勝光寺から南西方向を見ると、十字路の角に垣根を巡らせた一角が目に入る。ここが渋垂館の跡である。館には50mほど堀が残っているのであるが、この残存部分の外側には上記の垣根があり内部を見えなくしてあるので、一見堀があるとは分からない。しかし、垣根をかき分けると、写真のように堀があるのが分かる。底ははじめじめとしてぬかるみ、水堀であったことは明らかである。高さ2mほどの土塁もある。

 方60mほどの方形居館であったようである。この館の南西側には城のような白い土塀と長屋門を配したお宅があるのだが、これらもかつての城域内であったのであろう。

 そんなわけで遺構をきちんと確認することはできなかったのであるが、現状から想像すると、だいたい右の図のような城館であったようだ。もっとも、ただの想像図である。

 「鑁阿寺文書」に「渋垂の要害没落に就きて御注進に預り候云々」とある渋垂要害とはここのことではないかと想像される。鎌倉時代に渋垂氏の居館であったといわれるが、詳細は不明である。現在、館跡は辺見氏のお宅となっており、この辺見氏が、渋垂氏となんらかの関係があったのではないかと思われる。









中里城(足利市福里字中里)

*『栃木県の中世城館跡』(東洋書林)を基にしてラフを描いてみた。

 中里城は福居町の宝福寺の東南100mほどの所にある。道路の脇の薮に見えるところと道の間の部分がやや窪んでいてこれが堀の跡らしいことがなんとなく分かる。ただし、道路のアスファルトが侵食してきているようで、本来の堀幅の1/3程度になってしまっているようである。郭内側には高さ2mほどの土塁もある。郭内は畑となっており、探せば遺構はいろいろと見られそうだが、この畑は民家の中といった感じで入りにくく、探索するのに気が引けてしまう。

 方100mほどで五角形の居館であったらしい。東北ではなく西の角が欠けているのがめずらしい。

 中里城は足利氏の家臣柳田伊豆守が築いたのに始まるという。後に中里城主は、赤井氏の家臣毛呂季忠の乱に関わったという。












 中里城の堀の跡。本来は脇の道路いっぱいくらいまで広がっていたものであろう。脇の道を広げたためにかなり幅を狭められてしまっている。
















八椚(やつくぬぎ)城(足利市八椚町字堀の内)

 八椚城は毛野小学校のすぐ東南側にある。水田の中に土塁の一部が残っているが、残存している遺構はこの北側の部分らしく、あとは耕地整理や宅地化に伴って埋められてしまったらしい。

 というわけで、現状ではほぼ壊滅状態にあるが、1947年の航空写真を見ると、城の形状が把握できる。当時すでに城内になっていたようだが、北側半分はグランドとなっており、折れを伴った堀の形状がきちんと分かる。

 南側は校舎となっているので、堀も埋められてしまっているようであるが、この航空写真から想像する限り、右の図のような城館であったと想像することができる。


 この城は八椚弾正によって築かれたものであるという。「松陰私語」によると、文明3年(1471)、山内上杉の家臣長尾氏によって、八椚城は攻撃されて、八椚、赤見、加胡、大高らの諸将は捕らえられたという。

 また、天正年間には、長尾氏が佐野氏に備えて築いた八椚城というのが記録に出てくるという。しかし、現状の遺構を見る限り、中世前期の居館跡と思われ、天正期の城がここであったとは思えない。周囲には城を築くのによさそうな山がいくつも林立しており、これらの中のどれかに八椚山城が埋もれている可能性がある。





































大竹屋旅館

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